広島市議会議員(安芸区)

死体検案書の正しい書き方を学びました。

いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 先ほど、広島県医師会館で行われた「死亡診断書・死体検案書の正しい書き方」を研修しました。講師は広島大学法医学教室の長尾正崇教授です。最近、死亡診断書や検案書を書く機会がほとんどなくなったので改めて学び直すつもりで出席しましたが、大変に意義深い内容でした。少し長くなりますが皆さんもいずれ書いてもらうことになりますから読んでおいてください(読んでも役に立つかどうかは不明ですが)。ちなみに歯科医師も死亡診断書は書けますが、死体検案書は書けません。


 死亡診断書とは、主治医が患者の生前に診療していた疾病に関して死亡したと認める場合に書きます。それ以外は死体検案書となります。たとえば、前立腺肥大症で診療していた患者が自宅で心臓血管障害で死亡と思われる場合は死体検案書になります。もしも患者であっても死因が明らかでない場合には24時間以内に所轄の警察署に届けなければなりません。


 死亡診断書には死亡したとき、場所、原因などの欄があります。死亡の原因は医師によって書き方に差が出ます。これには(あ)として直接死因、(い)として(あ)の原因、(う)として(い)の原因を書きます。
 たとえば、大腸がんが肝臓に転移して肝機能障害によって亡くなった場合は、直接死因は肝不全、その原因は転移性肝がん、その原因は大腸がんとなります。


 死亡の種類として、1.病気及び自然死、次に不慮の外因死として2.交通事故、3.転倒・転落、4.溺水、5.煙、火災及び火焔による障害、6窒息、7.中毒、8.その他
さらにその他の不詳の外因死として9.自殺、10.他殺、11.その他の不詳の外因があります(わたくしは1の病気及び自然死以外を書いたことがありません)。
 そして以上のどれにも該当しない死因は12.不詳の死となります。路上の死者や多くの溺死、白骨死体などはこれに該当します。死刑もこれに含まれるそうです。

 溺死、焼死、虐待死、絞殺などの外見と解剖の様々な写真が示されました。終わったあと、エレベーターで「あんな写真を見た後じゃあ、飯が食えんな」との呟きを聞きました。

 最後に興味深かった例を挙げます。
 火災現場で焼死体が2体発見されました。部屋の外のベランダが外側に膨れており、部屋で爆発があったことが予想されました。1体は男性の死体で出口のドア近くにありました。もう1体は女性で奥の部屋のベッドの上にありました。解剖したところ、男性の気管には「すす」がありました。ところが女性の気管には「すす」がありませんでした。そのうえ、上瞼の粘膜に小さい出血(溢血点)が認められました。つまり、女性は火災が起きる前に絞殺されていたことになります。法医学者と検察の見解は以下の通りです。まず男が女性を絞殺し、これを隠蔽するためにガソリンをかけて火をつけました。ところがガソリンが多すぎたために爆発を起こし、逃げ遅れてドアの前で焼死しました。結局、被疑者死亡によって不起訴となり落着です。なんともお粗末な顛末です。

 医師として、死者に礼を尽くすとともに、その死因を明らかにすることは絶対的な責務であることを痛感しました。

瀬野川の復旧工事が始まりました。

 瀬野川の復旧工事が始まりました。
 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 年の瀬も押し迫り、何かと慌ただしい心持です。瀬野川河川敷では、7月豪雨で大量に溜まった土砂の撤去工事が始まりました。多くの意方が指摘するように、瀬野川はずいぶん浅くなっています。来年の水害を防ぐためにも急がれる工事です。復興の槌音が響き始めました。
 また、7月豪雨では、安芸区内の国道2号線は11か所が損傷を受けました。その復旧のために約14億円の予算が組まれました。国道2号線も瀬野川河川敷も工事完了は来年3月末の予定です。復興の槌音が響き始めました。

優しかった長崎のドライバー。

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 12日から15日まで建設委員会で熊本市、福岡市、長崎市を視察しました。熊本市では地震からの復興を、福岡市では博多駅前広場の再整備と市内の都市再生緊急整備地域を、長崎市では三菱長崎造船所資料館でその歴史を学びました。わたくしにとって、とくに興味深かったのは地震からの復興と長崎造船所でした。それについては稿を改めます。

 3日間を通じて強く印象に残ったのは、長崎のドライバーの優しさでした。長崎は坂も多く、被爆した割には狭い道路が多くありました。広い道路でも信号機のない交差点が多いことに気づきました。
 投宿したホテルは出島から徒歩3分の場所でした。ホテル前の広い道路の交差点には信号機がなく、車だけでなくバス、市電も多く通行していました。しかし、それぞれに譲り合い、通行もスムーズでした。歩行者が横断歩道に入る前から、ドライバーは停止してくれます。わたくしが横断歩道を渡ろうと思ったとたんに、対向車線の車が止まってくれました。対向車線ですから、止まる必要のない距離であったにも関わらずです。これは広島では全く経験したことがありません。
 さらのもう一つ。長崎に滞在中、クラクションを聞いたのはわずかに1回だけでした。クラクションの音が溢れかえっているのは多くの街で経験します。それだけに長崎の静謐は心に残りました。長崎市民の優しさが偲ばれる癒しの時間でした。

 わたくしが高校1年生の時、ヒッチハイクをしました。長崎で途方に暮れていると、30歳代の男性が「ヒッチハイクなら諫早に行けばトラックがたくさん走っている」と教えてくれた上に、長崎から諫早までの切符を買ってくれました。あの男性の優しさと顔は今でも忘れられません。探偵ナイトスクープで探してもらいたいと思いますが、あまりにも雲をような話なので無理でしょう。広島に帰ったばかりですが、また長崎を訪れたい気分です。

空手はここまでレベルが高くなった。

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。少しずつ冬に近づいています。山では紅葉が見事です。



 
最近、空手の国際大会を見ていますが、世界大会のレベルの高さに驚きです。スピード、技の切れなどはもちろんですが、選手はそれぞれに相手を研究しているので、同じ相手に連勝することは非常に困難です。これは、組手だけでなく型についても言えます。
 いつも素晴らしい試合に感服です。素人が見ると、あまりにもスピードが速いので、どちらの選手のポイントなのかわからないことも多いでしょう。一度ご覧になってください。勝手に世界選手権を名乗っている流派とのレベルの違いがおわかりいただけるでしょう。
 次回はBS1で、11月19(月)AM0:00〜1:40にベルリン大会が放映されます。絶対に飽きることなくご覧になれます。お楽しみに。

アメリカ本土を爆撃した男(最終章)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 平成2年5月24日、藤田は三たびブルッキングスへ向けて出発します。このとき持参した鯉のぼりは市の中心部にある電力会社の大きな鉄柱に翻りました。市民はジャパニーズ・カープ喝采しました。
 翌朝、藤田は市役所を訪ねます。市長は、藤田の再訪を機に、条例で5月25日を「藤田信雄デー」と定めたことを伝えます。
 

 (藤田が寄贈した軍刀を持つブルッキングス市の三人娘)

 藤田は平成4年9月にもブルッキングス市を訪れます。爆弾を投下してちょうど50年のことです。このとき藤田は、爆弾を落とした森に行きます。そこにはこんな表示板がありました。「日本軍爆弾落下地点。第二次世界大戦中、アメリカ大陸に落とされた唯一の爆弾(1942年9月9日)」
 

 藤田はここで、森林警備員が用意してくれたレッドウッドの苗木を表示板の傍に植えます。「50年かかってやっとできました。この1本の苗木で、私が米本土に及ぼした被害の償いが・・・。これでかつての敵地に第2の故郷を持つことができました。」

 平成9年9月29日、藤田は息を引き取ります。86歳の誕生日まで2週間のことです。死の3時間後、ブルッキングス市から名誉市民章が届きます。
「布告 オレゴン州ブルキングス市議会
 藤田信雄氏は長年の及ぶ我が市の友人であるとともに我々の誇りでもある。氏は我が市のいわば親善大使として尽力され、我が市に寛大なる贈り物と精神の慈しみを与えた。
 氏は二つの文化を分かち合うことにより平和の絆を創り上げ、永遠に失われることのない功績を残した。
 よってブルッキングス市議会は氏を名誉市民として讃え、永久に顕彰することを決議した。
 1997年9月22日 ブルッキングス市長 ナンシー・ブレンドリンガー」

 藤田の一周忌が爆弾が投下された場所で営まれました。そこに遺骨の一部が埋められています。
 
 これほどまで、武士道精神、帝国軍人精神を具現した日本人がいたことを知らなかったことを恥ずかしく思います。