広島市議会議員(安芸区)

最近購入した本

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 新型コロナで外出の機会が減り、時間を持て余すことも多くなりました。これを幸いに読書に当てています。

 

最近購入した本は以下の通りです。

1.女たちのポリティックス  幻冬舎

   私の知らない女性政治家たちの棚卸。たとえばドイツのメルケル首相を「ヨーロッパの漬物石」と揶揄しています。逆に言えば日本の女性政治家の物足りなさの裏返し?

2.だから、あの人は嫌われる  幻冬舎

   気をつけなければ・・・・

3.プロイセン王家12の物語  光文社

   高校で世界史を選択しなかったので改めて勉強

4.闇の盾

権力者たちが闇から闇に処理していた。元警視総監、秦野章の秘書を務めた男の回顧録。凄まじい内容でした。

5.資源大国アフリカ  Windy Books

  南アフリカの治安の悪さがこれほどとは。日本人には想像できません。

6.米韓同盟消滅  新潮新書

  あながち荒唐無稽とは言えないのでは?文寅在一派ならやりかねない。

7.職業政治家 小沢一郎  朝日新聞出版

  改めて小沢の足跡を学びます。

8.家賃滞納という貧困  ポプラ社

  コロナ禍で追い詰められる人たち

9.中国共産党暗黒の百年史  飛鳥新社

  おなじみ石平の著書

10.人新世の「資本論」  集英社新書

  先進国は自分たちの快適な生活のために、低開発国に環境破壊を押し付け、資源を略奪している。電気自動車も地球全体から見れば決して環境に優しくないと警告。

11.60分でわかる!SDGs超入門  技術評論社

上記の人新世の「資本論」に衝撃を受け、改めてSDGsを勉強しなおします。

12.SDGsの正体  PHP研究所

   SDGsにはウラがある?

13.SDGs 危機の時代の羅針盤  岩波新書

14.14歳からのプラスチックと環境問題  インビジュアル研究所

15.SDGs  中公新書

16.世界は広島をどう理解しているか  中公新書

15.評伝 福田赳夫  岩波新書

忠臣蔵の決算書(最終章)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 今回は忠臣蔵の決算書の最終章として、浪士たちや上野介の縁者がどうなったかを書きます。

 討ち入り後に行方不明となった足軽寺坂吉右衛門以外の46人の浪士は細川藩、伊予藩、長府藩岡崎藩にお預けとなりました。相当の厚遇であったようです。浪士たちは即日にでも断罪に処せられることを覚悟していました。自分たちの評判が良いことを聞いても切腹になるかもしれないと期待したようです。元禄16年(1703年)
2月4日、幕府から浪士たちを預かっている四家に切腹を命じる上使が派遣されます。上野介を討ったことは「公儀を恐れざるの段、重々不届き」というものでしたが、当時の観念から言っても切腹は軽い処罰でした。討ち入りは当初幕府が喧嘩両成敗を行わなかったことから起こったことであり、幕府も後ろめたい思いがあったのでしょう。

 

 討ち入りに関する処罰は浪士だけに留まりませんでした。46人の遺児で15歳以上の男子は伊豆大島へ遠島となります。19人いた遺児のうちこれに該当したのは4人です。15歳未満の者は、15歳になるまで縁者に預けられ、15歳になって遠島となりました。女子は「お構いなし」となっています。伊豆大島にも浪士たちの評判が届いており、遺児たちの待遇は良かったようです。

 

 また、上野介から家督を継いでいた吉良左兵衛義周(さひょうえよしちか)は討ち入りにとき防戦して手傷を負いましたが存命でした。浪士たちへの切腹が命じられたと同じ2月4日、大目付の仙石伯耆守から呼び出され、「親の恥辱は子として遁れがたい」として信州高島藩へ「お預け」となります。ここでようやく幕府は喧嘩両成敗を認めたことになります。

 

 浪士たちの縁者は遺児たちの放免運動を行います。宝永3年(1706年)8月、幕府は瑶泉院らの願いを容れ、将軍綱吉の生母、桂昌院の一周忌を機に、流罪となっていたものを放免します。さらに宝永6年正月に綱吉が没すると、後を継いだ六代将軍家宣は、綱吉の代に罪を得た者のうち3,839人に大赦を命じました。このとき、46人の遺児たちもすべて大赦とされました。さらに広島藩にお預けとなっていた浅野大学も赦され宝永7年9月、500石を与えられて旗本として格式のある「交代寄合(こうたいよりあい)」に取り立てられました。

 内蔵助の妻りくが離縁されたのちに生まれた三男の大石大三郎は、広島藩浅野家に新地1,500石で召し出されています。これは内蔵助の石高と同じです。12歳の子どもにこれほどの領地が与えられるのは異例です。

 浪士たちの志の高さが子孫に継がれました。広島人として赤穂浪士を身近に感じます。いま、忠臣蔵の決算書と同じ著者による関ヶ原の決算書を読んでいます。動いたお金は3000億円。すごい戦いでした。

 その次は「経理から見た日本陸軍」を読む予定です。その次は「経理から見た日本陸軍」を読む予定です。

 

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忠臣蔵の決算書(4)

 いい顔ふやそう。沖 宗正明です。

 6月13日、7月4日、7月23日に忠臣蔵の決算書(1)、(2)、(3)を書きました。今回は決算の締め括りです。 

 旅費以外に大きいのが難儀する旧藩士の生活扶助費です。江戸詰めの藩士の多くはそのまま江戸に残りましたが、赤穂在住の藩士たちは大阪、伏見、京都などに移っています。浪人暮らしは蓄えを食い潰す生活です。多くの下級武士は長屋暮らしをしながら内職などで糊口を凌いでいました。最下級クラスのニ十石五人扶持であった大高源五は金一分を毎月の食事や支払いに当てています。現在の価格で約3万円です。ギリギリの生活です。多くは金二分=6万円程度で暮らしていたようです。困窮した旧藩士たちへは数両単位で金が渡されています

 

 内蔵助のエピソードで知られているのが祇園一力茶屋での豪遊です。かなりの出費であったようですが、金銀請払帳には記載がありません。内蔵助個人の出費であったようです。

 

 8月末には手持ちは二百両を切っており、旧藩士たちが江戸に下る旅費を考えると足りなくなる恐れがありました。内蔵助は最後の旅費を一人三両と決めていましたが、金銀請払帳には記載がありません。これも乏しくなった軍資金を考えて、内蔵助が個人的に出費したのでしょう。この時点で残金はわずか六十両になっています。

平均ひと月6万円でも47人では280万円が必要です。もう時間的余裕もなくなっていました。元禄15年12月14日に討ち入っていますが、金銭的に追い込まれていたという面もあります。

 さて、最後は討ち入り道具の購入です。金銀請払帳には槍が金二分(6万円)、長刀だと金一両(12万円)、着込(鎖かたびら)と前頭部を保護するための鉢金が合わせって金一両二分(18万円)などが数人分しか記載がありません。さらに木製の梃子や兵を乗り越えるための鉤、鎹(かすがい)、まさかり、鉄槌、松明などは書かれていません。全部合わせると相当の金額になりますが、これも内蔵助が個人で出したのでしょう。もはや手持ちの金は尽きていたことが伺えます。

 

 内蔵助が討ち入り前に金銀請払帳を締めて決算したのは、討ち入り準備をほぼ終えた元禄15年11月の事でした。決算書が亡君の未亡人、瑶泉院の側用人である落合与左衛門に届けられたのは討ち入り当日の12月14日でした。事前に漏れることを恐れたのでしょう。内蔵助が討ち入りを見据えて金を残したことには感服します。平時には昼行燈と呼ばれたと言われていますが、彼は間違いなく乱世のリーダーでした。今の日本に欲しいですね。

 次回は最終章として内蔵助や上野介の縁者がどうなったかを書きます。

衰えた?田原総一朗

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 毎週日曜日の18時30分からBS朝日で激論クロスファイアを見ています。メインキャスターの田原総一朗の鋭い切込みが魅力です。しかし、最近田原の言動に首をかしげることが増えました。ゲストの質問を遮ったり、答えている最中に割って入ることが気になります。自分の意見を強引に通そうとすることもしばしばです。女性アシスタントの見事な仕切りで救われていますが、田原総一朗、衰えたり!!!

夏の朝の爽やかさ

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 猛暑が続き、我が家のビール消費量はうなぎ上りです。この時期、ときに朝早く目が覚めることがあります。窓を開けると涼しい風が入ってきます。蝉もにぎやかに鳴いています。しばらくこの爽やかさを満喫していると、子供のころの記憶が蘇ってきます。夏休みは楽しい思い出ばかりでした。暑さをものともせず、虫取りや海水浴などで遊びまわっていました。いつの頃からか夏がつらい季節になってしまいました。歳とともにそのつらさが増してきます。楽しかったのは小学生時代まででしょうか?