広島市議会議員(安芸区)

元広島市長の粟屋仙吉を知っていますか?

 いい顔、ふやそう。沖宗 正明です。
 久しぶりに晴天です。こんな季節には「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句を思い出します。鰹は松魚とも書いたようです。初物好きな江戸っ子たちは先を争って初鰹を食べたそうです。見栄を張るために「女房を質に入れる」こともあったとか。わたくしは研修医のころ高知県立中央病院に勤務していましたが、帰りに鰹を買っては土佐の地酒に舌鼓を打ったものです。当時、鰹は驚くほど安かったことを覚えています。「足の速い」鰹を藁でいぶして「たたき」にし、ニンニクを効かせた土佐酢で食べることは先人たちの素晴らしい知恵です。
 

 さて、きょうは粟屋仙吉の話です。
 粟屋仙吉は明治26年仙台に生まれました。鉄道省に勤務していた父親は各地を赴任しました。仙吉という名は仙台で生まれたことに因んでいます。仙吉の名を一躍高めたのは昭和8年6月に起こった「ゴーストップ事件」です。
 大阪市北区天神橋6丁目(天六)交差点を第4師団の陸軍1等兵が信号を無視して横断しました。これを見た巡査は曽根崎署に連行します。しかし、1等兵は「自分は天皇直属の兵隊であるから、警察官の支持は受けない」と従いません。巡査も「そちらが天皇直属なら、こちらも天皇直属の警察官である」と互いに譲らず殴り合いになりました。巡査の鼓膜が破れたそうですから相当な格闘だったようです。通報を受けた憲兵が1等兵を連れ出し、その場は収まりました。しかし、これが軍部と、警察を管轄する内務省との全面対決になります。当時の大阪府警察部長が粟屋仙吉でした。仙吉は寺内寿一師団長相手に一歩も引きませんでした。


 この騒動をお聞きになった昭和天皇は、荒木貞夫陸軍大臣にご下問になります。あわてた荒木は急遽、兵庫県知事を介して手打ちに持ち込みます。事件から半年後に、件の1等兵と巡査が握手している写真が新聞に載り一件落着となりました。この事件は、以後統帥権の名のもとに軍部の暴走に拍車がかかったきっかけになりましたが、その一方で、粟屋仙吉は男を上げました。


 この粟屋仙吉こそ昭和18年に就任した広島市長です。残念ながら仙吉は昭和20年8月6日、原爆により市長公舎でなくなりました。現在、公舎跡に近い広島市中区萬代橋西詰め南側の緑地帯に、「被爆市長官舎跡」の碑とその説明板が建てられています。



 今年2月7日の記者会見で松井市長は、自らの給与削減に関して「1割削減ならちょっときつい。3%なら少ない。エイヤッですね。みんなで赤信号を渡ったようなものです」と発言しています。噺家や漫才師ならブラックユーモアとして許されるでしょうが、交通ルールを無視するような発言は市長としてあってはならないものだと思います。
 交通違反を取り締まった巡査を、軍隊に対して一歩も引かずに守った粟屋仙吉が、自分の後輩の市長が公式の場で赤信号を渡ったと発言したことを知ったらどう思うでしょうか?さぞ、情けない思いをしていることでしょう。みなさんはいかがお考えでしょうか?