広島市議会議員(安芸区)

こんなに素晴らしい日本人がいました

 いい顔、ふやそう。沖宗 正明です。
 新年を迎えても寒い日が続いています。インフルエンザが流行していますので、要注意です。


 正月に四国へ行きました。徳島で新しい発見をし、誇らしい気持ちになりました。
 徳島には、第一次世界大戦後に板東俘虜収容所が設置されていました。日本は、日英同盟によるイギリスからの応援要請にしたがって上海へ派兵し、ドイツ軍の捕虜約5000名を日本国内12か所に分けて収容しました。約1200名が収容された坂東俘虜収容所はその一つです。俘虜(ふりょ)には労働の義務はなく、結構楽しんでいたようです。高級将校には、ドイツから給料が支給されており、現在の価値で60万円もらっていた将校もいたようです。わたくしのイメージの「捕虜」とは大きくイメージが違っています。


 松江豊寿は坂東俘虜収容所長を務めた人物です。在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させました。この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏されました。日本での「第9」の第1号です。楽器はほとんど手作りでした。
 

 1917年に造られた板東俘虜収容所長に任じられた松江は、ドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許しました。賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟に生まれた体験が、大きく彼の良心的な人格形成に影響したといわれています。収容所内には銭湯やボーリング場、ビリヤード場もありました。


 また、付近の人達と俘虜との交流や技術指導も盛んに行われ養鶏・養豚・野菜栽培から建築・設計まで広い分野で交流が行われました。

 1920年4月、第一次大戦終了に伴い板東俘虜収容所は閉鎖されましたが、俘虜たちは解放された後もここで受けた温かい扱いを忘れず「世界のどこに松江のような(素晴しい)俘虜収容所長がいただろうか」と語るほどでした。
 
  こうしたことは、2006年の映画『バルトの楽園』に詳しく描かれています。松江所長を演じたのは松平健です。こんなに素晴らしい日本人がいたことを誇りに思います。


松江豊寿所長。当時陸軍中佐。この風貌で43〜4歳。

収容所の全景。

バラック(兵舎)

バラックの内部。

ボーリング場。

ピンは9本です。ボールは木製でした。何度投げてもガターばかりでした。

当時あった商店。