広島市議会議員(安芸区)

こんなにすごい視聴率の選手がいた

 いい顔、ふやそう。沖宗 正明です。
前回、教諭が自分の子供の入学式のために担任学級の入学式を欠席したことを書きました。今朝の産経新聞の社説には、この教諭に対して批判的な内容が掲載されています。「私」よりも「公」を優先すべきだという論調でした。


 さて、今日は驚異的な視聴率をたたき出したプロスポーツ選手のついてです。
下の数字をご覧ください。日付と視聴率です。

1.昭和40年5月18日  54.9%
2.昭和40年11月30日 60.4%
3.昭和41年5月31日  63.7%
4.昭和42年1月3日   53.9%
5.昭和42年7月4日   57.0%
6.昭和43年2月27日  53.4%

 このうち、2、3、5はその年の紅白歌合戦に次ぐ年間の視聴率2位です。
4と6は年間の第3位です。当時の紅白歌合戦は視聴率70%を超えるお化け番組でした。いかにこの選手の人気がすごかったを物語っています。昭和40年代の国民的ヒーローです。
3の63.7%は日本の歴代第5位です。参考までに挙げますが、同じ年のザ・ビートルズの来日公演は56.5%、2年前の東京オリンピックの女子バレーボール決勝戦が66.8%ですから、この数字がいかに驚異的かがわかります。


 この選手こそ、プロボクシングで世界殿堂入りしたファイティング原田(原田政彦)です。
 当時はジュニアクラスがなく、世界チャンピオンはわずかに8人しかいませんでした。日本チャンピオン、東洋チャンピオンを経て世界に挑戦するステップがありました。現在は17階級に細かく分けられ、1階級の体重差はわずかに1.8kg程度です。それぞれの階級にWBA,WBC,IBF,WBOの主要4団体が認めたチャンピオンがいます。さらに暫定チャンピオンやスーパーチャンピオンもいます。チャンピオンベルトの価値は当時の10分の1以下です。弱いチャンピオンを探してファイトマネーを積めば世界チャンピオンになることもできます(今の日本人チャンプもそんなのがいます)。原田はフライ級とバンタム級のチャンピオンになりました。シドニーで3階級目のフェザー級に挑戦しましたが、ダウンしたジョニー・ファメションを審判が抱き起すなど明らかに不正な採点によって引き分けとなりました。この試合のジャッジはレフェリー1人という変則なものでした。わたくしはこの試合を見た記憶があります。試合終了のゴングが鳴ると同時にレフェリーは二人の選手の手を挙げ、引き分けを宣しました。このときにはマスコミを始めオールトラリア中が原田の勝ちを認めています。


1と3は「黄金のバンタム」と呼ばれた対エデル・ジョフレ戦。2は対アラン・ラドキン戦。4は「ロープ際の魔術師」と呼ばれた対ジョー・メデル戦。5は対ベルナルド・カラバロ戦。6は対ライオネル・ローズ戦です。


 とくに、「黄金のバンタム」と呼ばれたエデル・ジョフレは生涯の試合数78、勝利数72(うちKO勝50)、引き分け4、負け2という戦績です。足かけ19年のリング生活でわずかに2回しか負けていません。その2回の敗戦の相手がファイティング原田です。


 原田は1983年に日本人としては初めて世界ボクシング殿堂入りしています。また、同じ年にWBC(世界ボクシング評議会)が選出した「偉大な26人のボクサー」の一人に選ばれました。この時のメンバーは、モハメド・アリロベルト・デュラン、アレクシス・アルゲリョ、シュガー・レイ・レナード、など超スーパースターです。


 世界的の尊敬を集める日本人プロスポーツ選手には、王貞治中野浩一などがいますが、ファイティング原田も間違いなく日本人の誇りです。