広島市議会議員(安芸区)

八丈島にこんな悲劇がありました。

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。


 広島発のチャーター便で八丈島に行ってきました。「鳥も通わぬ八丈島」や「流人の島」くらいしか知識がありませんでしたが、新しい発見の多い有意義な3日間の旅でした。
 まず、八丈島は、三重県の尾鷲、屋久島と並ぶ、日本の三大降雨地域です。快晴の日は年に10日しかないそうです。事前に調べると、3日とも雨模様でしたが、幸運にも雨に遭わず、なんと2日目は快晴でした。ガイドによると、八丈島の天気予報は全くあてにならないので、雨具の携帯は欠かせないそうです。ツアーによっては荒天のため展望台から何も見えないことも珍しくないそうです。今回のツアーはすべての展望台で絶景を堪能しました。
 八丈島は東京から南へ290km。流れの早い黒潮八丈島の北側を流れています。これでは島抜けなどできないでしょう。海洋性気候なので夏は涼しい風が吹き、冬でも氷点下になりません。しかし、強風が吹き荒れるため、冬の体感温度は氷点下のようです。島としては珍しいひょうたん型で、八丈島の人たちは自分たちの島こそが「ひょっこりひょうたん島」のモデルだと言っています。これは二つの火山の噴火によって地続きになったためです。


 八丈島の流人第1号は宇喜多秀家です。秀家は岡山城主として備前、美作、備中半国、播磨3群を治める57万石の大大名でした。関ヶ原の戦いでは西軍の主力を務めています。島津、前田の助命嘆願よって死罪は免れ、1606年に八丈島に流されました。このとき、妻の豪姫は秀家に同行することが許されず、実家の加賀前田家に引き取られています。豪姫は毎年、多量の米と金銭を送ったようですが、すべて搾取され、秀家には届いていませんでした。八丈島での秀家の暮らしは赤貧洗うがごとくであったようです。偶然に嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話が残っています。また、代官の屋敷に招かれたときには、おにぎりを3個作ってもらい、家族の土産にした話も残っています。
 秀家は八丈島で49年間暮らし、84歳で亡くなっています。現在でも、八丈島にともに渡った秀家の長男と次男の子孫たちが秀家の墓を守っています。秀家が釣りを楽しんだと伝えられる大賀郷の南原海岸に秀家と豪姫の像が建てられています。


 南原海岸。溶岩が固まったものです。