広島市議会議員(安芸区)

忠臣蔵の決算書(1)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 梅雨の晴れ間でいい天気が続きますが、我がカープは梅雨真っただ中ですね。新型コロナも少しずつ減ってきているようですが、まだまだ安心できないレベルです。

 

 きょうは忠臣蔵の決算書について書きますが、まず藩の財政の基本的なことに触れます。赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が殿中で高家筆頭の吉良上野介義央を切りつけたのは元禄14年(1701年)3月14日です。 

 当時の貨幣価値については、元禄8年に貨幣改鋳が行われたため、インフレが進み、現在の価値に直すと以下のようになります。

 1両=12万円。1両=4分=16朱です。また、寛永通宝1文が30円。当時蕎麦1杯が16文ですから480円です。ちなみに1両=4貫文、つまり4000文です。1両で米が1石3斗買えました。したがって1石は92,300円となります。

 赤穂藩は公称5万石です。5万石は年間の総収入です。ここから筆頭家老大石内蔵助の1500石を始め、家臣たちの給料を支払います。約9割が給料ほかの経費であったようで、藩としては1割の5000石となりますが、四公六民なので6割を農民に与え、残りの4割=2000石が藩独自の収入となります。1石は92,300円なので、2億円弱となります。しかし、新田開発や塩田から得られる良質な塩の運上金などで実際にはその数倍の相当に裕福な財政であったようです。

 家臣の石高、たとえば内蔵助の1500石とは、1500石の収穫が得られる領地を拝領しているという意味です。これを知行取り(ちぎょうどり)と言い、100石以上の藩士を言います。知行取りの藩士も6割を農民に与えるので、内蔵助の取り分は残りの600石。約5500万円となります。ここから自分に仕える奉公人たちの給料を払いますが、相当の収入でした。

とはいえ、それは一部の上級家臣であって、中級、下級の家臣たちは厳しい家計であったようです。彼らは直接藩から米を支給される切米取り(きりまいどり)と呼ばれます。たとえば、大高源五は二十石三人扶持です。二十石は藩の藏から二十石の米が支給される本給という意味です。扶持とは奉公人を雇うための給料で、一人扶持は一日米五合の割合で支給されます。一年では一石七斗七升となります。五人扶持なら八石八斗五升で、合計約三十石となります。このレベルは算用数字より漢数字の方がピッタリ来ます。三十石×92,300円は約280万円ですから楽な暮らしではなかったでしょう。

 

 お取りつぶしとなった赤穂藩の財政上最大の問題は藩札の処理でした。藩札は領内だけに通用する札なので藩として負債です。発行された藩札の合計は約18億円で、藩財政に匹敵する額でした。藩札は現物の銀と引き換えができる兌換紙幣です。赤穂藩では「札座(さつざ)」という役所で交換していました。刃傷から5日後の3月19日には藩札を持っていた商人たちが札座に殺到した記録が残っています。豪商は相当な情報網を持っていたのでしょう。藩は藩札交換のための準備金を発行額に等しい額の積み立てを行っていましたが、借金の担保などで実際には4億円が不足していました。藩は本家の広島浅野家に融資を頼みますが、体よく断られます。そこで内匠頭の妻の実家、三次藩に依頼し承諾を得ました。

 赤穂藩が倒産したため、結局藩札は額面の6割で交換することで決着を見ますが、実際には藩が把握していた額の3倍もの藩札が交換されました。札座役人の不正や偽札があったと推察されます。

 藩の所有していた財産はすべて売却されました。17艘の船や、道具、武具や鉄砲・槍、兵糧米などが売り払われました。4月19日に赤穂城を開城しましたが、大石内蔵助がすべての藩財政の処理を終えて会計を締めた時、手元に残ったのはわずか約700両=8,400万円ほどでした。(以下は次回)。