広島市議会議員(安芸区)

忠臣蔵の決算書(最終章)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 今回は忠臣蔵の決算書の最終章として、浪士たちや上野介の縁者がどうなったかを書きます。

 討ち入り後に行方不明となった足軽寺坂吉右衛門以外の46人の浪士は細川藩、伊予藩、長府藩岡崎藩にお預けとなりました。相当の厚遇であったようです。浪士たちは即日にでも断罪に処せられることを覚悟していました。自分たちの評判が良いことを聞いても切腹になるかもしれないと期待したようです。元禄16年(1703年)
2月4日、幕府から浪士たちを預かっている四家に切腹を命じる上使が派遣されます。上野介を討ったことは「公儀を恐れざるの段、重々不届き」というものでしたが、当時の観念から言っても切腹は軽い処罰でした。討ち入りは当初幕府が喧嘩両成敗を行わなかったことから起こったことであり、幕府も後ろめたい思いがあったのでしょう。

 

 討ち入りに関する処罰は浪士だけに留まりませんでした。46人の遺児で15歳以上の男子は伊豆大島へ遠島となります。19人いた遺児のうちこれに該当したのは4人です。15歳未満の者は、15歳になるまで縁者に預けられ、15歳になって遠島となりました。女子は「お構いなし」となっています。伊豆大島にも浪士たちの評判が届いており、遺児たちの待遇は良かったようです。

 

 また、上野介から家督を継いでいた吉良左兵衛義周(さひょうえよしちか)は討ち入りにとき防戦して手傷を負いましたが存命でした。浪士たちへの切腹が命じられたと同じ2月4日、大目付の仙石伯耆守から呼び出され、「親の恥辱は子として遁れがたい」として信州高島藩へ「お預け」となります。ここでようやく幕府は喧嘩両成敗を認めたことになります。

 

 浪士たちの縁者は遺児たちの放免運動を行います。宝永3年(1706年)8月、幕府は瑶泉院らの願いを容れ、将軍綱吉の生母、桂昌院の一周忌を機に、流罪となっていたものを放免します。さらに宝永6年正月に綱吉が没すると、後を継いだ六代将軍家宣は、綱吉の代に罪を得た者のうち3,839人に大赦を命じました。このとき、46人の遺児たちもすべて大赦とされました。さらに広島藩にお預けとなっていた浅野大学も赦され宝永7年9月、500石を与えられて旗本として格式のある「交代寄合(こうたいよりあい)」に取り立てられました。

 内蔵助の妻りくが離縁されたのちに生まれた三男の大石大三郎は、広島藩浅野家に新地1,500石で召し出されています。これは内蔵助の石高と同じです。12歳の子どもにこれほどの領地が与えられるのは異例です。

 浪士たちの志の高さが子孫に継がれました。広島人として赤穂浪士を身近に感じます。いま、忠臣蔵の決算書と同じ著者による関ヶ原の決算書を読んでいます。動いたお金は3000億円。すごい戦いでした。

 その次は「経理から見た日本陸軍」を読む予定です。その次は「経理から見た日本陸軍」を読む予定です。

 

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