広島市議会議員(安芸区)

元寇ではもともと蒙古軍に勝ち目はなかった

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。

 元寇について調べて見ました。その結果、蒙古軍は最初から勝ち目がなかったことがわかりました。

 元寇は1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2回です。2回目の弘安の役では10万もの大軍が攻めてきました。蒙古の先軍は征服された宋と高麗(朝鮮)が務めました。というより無理やり先軍を務めさせられました。士気が上がるはずがありません。さらに、侵略用の造船を命じられた高麗は費用の安い、河川用の底が平らな船を献上しました。急造の粗悪な船だった上に、底の平たい船は横波に弱いため、玄界灘の荒波に木の葉のように翻弄されたことでしょう。蒙古は内陸国なので兵士たちは海を知りません。蒙古兵たちは船酔いに苦しんだことは想像に難くありません。当然彼らは泳げません。船から落ちれば一巻の終わりです。武芸十八般の中に馬を泳がせる術(水馬術)がある日本とは大きな違いです。

 また、蒙古軍の主力は騎兵です。馬は消耗品なので兵士一人当たり最低3頭の馬が必要ですが、馬は神経質な動物であり、玄界灘の荒海を渡ることは至難の業でした。当時の記録では、とくに10万もの大軍で攻めてきた弘安の役では3000頭程度しか馬を船に乗せていません。蒙古軍は得意の騎馬戦ではなく、不慣れな陸戦を強いられました。ただし日本になかった鉄炮は日本軍を苦しめました。鉄炮は後世の鉄砲とは異なり、手投げ弾のようなものですが、破壊力は大きかったようです。

 さらに、九州を一時的に侵略しても兵站が保たれません。物資の補給は続かなかったでしょう。長期戦になるほど苦戦が待っていました。蒙古は今のロシアがウクライナを攻めた時と同様に、日本がすぐさま降伏すると考えていたのでしょう。北条時宗という若き指導者率いる鎌倉武士の強さを侮っていたとしか言いようがありません。戦いの様子は、肥後国御家人竹崎季長が自分の戦いを描かせたものとされている蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)という一級品の資料から伺えます。右端の馬に乗っているのが季長です。鉄炮の炸裂によって馬が驚いている様子がよく描かれています。

 弘安の役では台風で蒙古軍はほぼ全滅したという記録が残っています。フビライは以後二度と日本への侵略を試みませんでした。蒙古軍兵士たちは「蒙古ねえ(もう来ねえ)」といったのでしょうか?

 神風がなくても日本が敗れることはなかったでしょうが、神風が吹いて危機を脱したことで、以後の日本においては何の根拠もなく危機の際には神風が吹くという神州思想が広がったことは不幸であったのかもしれません。

 蒙古軍は拉致した女性や子供の遺体を船べりに釘で打ち付けて武士たちや住民に恐怖心を植え付けようとしました。対馬には「ムクリ、コクリ」という言葉が最近まで残っていました。ムクリとは蒙古、コクリとは高麗のことです。蒙古、高麗の兵士たちが働いた残虐行為が島民たちを震え上がらせたことが窺えます。ありもしない南京虐殺の記念館を中国が作ったように、ありもしない慰安婦銅像を世界各地に作ったように、日本も中華街の入り口や、韓国領事館の前に「元寇記念館」を作って中国人や朝鮮人の残虐性をアピールしてはいかが?