広島市議会議員(安芸区)

瀬野川の復旧工事が始まりました。

 瀬野川の復旧工事が始まりました。
 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 年の瀬も押し迫り、何かと慌ただしい心持です。瀬野川河川敷では、7月豪雨で大量に溜まった土砂の撤去工事が始まりました。多くの意方が指摘するように、瀬野川はずいぶん浅くなっています。来年の水害を防ぐためにも急がれる工事です。復興の槌音が響き始めました。
 また、7月豪雨では、安芸区内の国道2号線は11か所が損傷を受けました。その復旧のために約14億円の予算が組まれました。国道2号線も瀬野川河川敷も工事完了は来年3月末の予定です。復興の槌音が響き始めました。

優しかった長崎のドライバー。

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 12日から15日まで建設委員会で熊本市、福岡市、長崎市を視察しました。熊本市では地震からの復興を、福岡市では博多駅前広場の再整備と市内の都市再生緊急整備地域を、長崎市では三菱長崎造船所資料館でその歴史を学びました。わたくしにとって、とくに興味深かったのは地震からの復興と長崎造船所でした。それについては稿を改めます。

 3日間を通じて強く印象に残ったのは、長崎のドライバーの優しさでした。長崎は坂も多く、被爆した割には狭い道路が多くありました。広い道路でも信号機のない交差点が多いことに気づきました。
 投宿したホテルは出島から徒歩3分の場所でした。ホテル前の広い道路の交差点には信号機がなく、車だけでなくバス、市電も多く通行していました。しかし、それぞれに譲り合い、通行もスムーズでした。歩行者が横断歩道に入る前から、ドライバーは停止してくれます。わたくしが横断歩道を渡ろうと思ったとたんに、対向車線の車が止まってくれました。対向車線ですから、止まる必要のない距離であったにも関わらずです。これは広島では全く経験したことがありません。
 さらのもう一つ。長崎に滞在中、クラクションを聞いたのはわずかに1回だけでした。クラクションの音が溢れかえっているのは多くの街で経験します。それだけに長崎の静謐は心に残りました。長崎市民の優しさが偲ばれる癒しの時間でした。

 わたくしが高校1年生の時、ヒッチハイクをしました。長崎で途方に暮れていると、30歳代の男性が「ヒッチハイクなら諫早に行けばトラックがたくさん走っている」と教えてくれた上に、長崎から諫早までの切符を買ってくれました。あの男性の優しさと顔は今でも忘れられません。探偵ナイトスクープで探してもらいたいと思いますが、あまりにも雲をような話なので無理でしょう。広島に帰ったばかりですが、また長崎を訪れたい気分です。

空手はここまでレベルが高くなった。

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。少しずつ冬に近づいています。山では紅葉が見事です。



 
最近、空手の国際大会を見ていますが、世界大会のレベルの高さに驚きです。スピード、技の切れなどはもちろんですが、選手はそれぞれに相手を研究しているので、同じ相手に連勝することは非常に困難です。これは、組手だけでなく型についても言えます。
 いつも素晴らしい試合に感服です。素人が見ると、あまりにもスピードが速いので、どちらの選手のポイントなのかわからないことも多いでしょう。一度ご覧になってください。勝手に世界選手権を名乗っている流派とのレベルの違いがおわかりいただけるでしょう。
 次回はBS1で、11月19(月)AM0:00〜1:40にベルリン大会が放映されます。絶対に飽きることなくご覧になれます。お楽しみに。

アメリカ本土を爆撃した男(最終章)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 平成2年5月24日、藤田は三たびブルッキングスへ向けて出発します。このとき持参した鯉のぼりは市の中心部にある電力会社の大きな鉄柱に翻りました。市民はジャパニーズ・カープ喝采しました。
 翌朝、藤田は市役所を訪ねます。市長は、藤田の再訪を機に、条例で5月25日を「藤田信雄デー」と定めたことを伝えます。
 

 (藤田が寄贈した軍刀を持つブルッキングス市の三人娘)

 藤田は平成4年9月にもブルッキングス市を訪れます。爆弾を投下してちょうど50年のことです。このとき藤田は、爆弾を落とした森に行きます。そこにはこんな表示板がありました。「日本軍爆弾落下地点。第二次世界大戦中、アメリカ大陸に落とされた唯一の爆弾(1942年9月9日)」
 

 藤田はここで、森林警備員が用意してくれたレッドウッドの苗木を表示板の傍に植えます。「50年かかってやっとできました。この1本の苗木で、私が米本土に及ぼした被害の償いが・・・。これでかつての敵地に第2の故郷を持つことができました。」

 平成9年9月29日、藤田は息を引き取ります。86歳の誕生日まで2週間のことです。死の3時間後、ブルッキングス市から名誉市民章が届きます。
「布告 オレゴン州ブルキングス市議会
 藤田信雄氏は長年の及ぶ我が市の友人であるとともに我々の誇りでもある。氏は我が市のいわば親善大使として尽力され、我が市に寛大なる贈り物と精神の慈しみを与えた。
 氏は二つの文化を分かち合うことにより平和の絆を創り上げ、永遠に失われることのない功績を残した。
 よってブルッキングス市議会は氏を名誉市民として讃え、永久に顕彰することを決議した。
 1997年9月22日 ブルッキングス市長 ナンシー・ブレンドリンガー」

 藤田の一周忌が爆弾が投下された場所で営まれました。そこに遺骨の一部が埋められています。
 
 これほどまで、武士道精神、帝国軍人精神を具現した日本人がいたことを知らなかったことを恥ずかしく思います。

アメリカ本土を爆撃した男(5)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 素晴らしい秋晴れです。冬はもう間近です。

 自らが育て上げた藤田金属は、長男に譲ってわずか2年半で倒産します。70歳を前にして、藤田は元部下を頼って工場に就職します。そこでは年下の工員のいじめもあったようですが、人望で数年後には工場長に抜擢されます。その間、少しずつ貯めた金が100万円になったのを機に、ブルッキングス市の高校生3人を、地元で開催される「つくば万博」に招待します。ブルッキングス市では青年会議所が中心になって選考委員会を開き、女子高生3人を選びます。さらにもう一人、22年前のブルッキングス市のパレードの時、藤田のそばをミニカーで動き回っていた坊やもそのグループ加わります。その坊やは、自分ほど藤田を知る者はいない、自分を招待しないのはおかしいと自薦しました。
 昭和60年7月8日、青年会議所のモーラン会長が率いる一行が土浦に到着します。藤田がブルッキングス市に招かれて23年がたっていました。ホテルでの歓迎会で、挨拶に立ったモーラン会長からサプライズが飛び出します。
 「藤田信雄元海軍中尉殿、貴殿の厚意と惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は、貴殿の立派で、また勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります。ロナルド・レーガン
 なんと、レーガン大統領からのメッセージが寄せられていたのです。モーラン会長に託された星条旗には、「ミスターフジタに渡すために5月1日、ワシントンのホワイトハウスに丸一日掲揚した」との証明書が添えられていました。レーガン大統領の粋な計らいでした。

 続きは次回のお楽しみ。