広島市議会議員(安芸区)

関東大震災と貞明皇后

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。 殺人的な猛暑です。昨日ゴルフ大会に参加しましたが、ゴルフ人生で初めて身の危険を感じた暑さでした。若い頃は炎天下でも苦もなくワンハーフのラウンドをしたものですが、昨日の感覚は加齢によるものだけではないように思えます。


 産経新聞に掲載の「朝けの空に-貞明皇后の66年」を楽しみに読んでいます。きょうの内容は次のようなものでした。


 大正12年9月1日、関東大震災が起こりました。このときの貞明皇后の行動力には目を見張るものがあります。一面のがれきの山、粗末なバラックの点在、ぼろぼろの衣服をまとった罹災者・・・・。9月29日、皇后が上野駅に降り立った時に目にした光景です。皇后の心中は察するに余りあります。皇后は駅近くの帝都博物館構内に設置された宮内省巡回救療班に行きます。医師や看護婦に様子を訪ね、患者にも声をかけます。当時、天皇や皇后が一般国民に直接声をかけるのは異例中の異例です。横浜にも行幸し、臨時病院の病室をくまなく慰問し、患者に声をかけます。乳児には自らミルクを飲ませることもありました。それから88年、東日本大震災の被災地を慰問され、親しく声をかける天皇皇后両陛下のお姿の原形は貞明皇后にあったのでしょう。
  皇后は震災後、それまで二汁三菜だった食事を一汁二菜に減らしました。食費を始め生活を切り詰めて捻出した資金をハンセン病患者への支援活動に当てました。皇后のハンセン病支援は、養蚕奨励や灯台支援と並ぶ三大事業のひとつです。当時のハンセン病は「癩」と呼ばれ、不治病と考えられていました。当然、患者とその家族は激しい差別にさらされました。皇后は大震災の翌年、静岡県ハンセン病治療施設、神山復生病院に金500円を、同院の患者に木綿縞衣服一着を下賜しました。症状の重い患者は手足の自由が利かず、袖を通すことが出来ませんでした。これを聞きつけた市内の女学生がボランティアで仕立て直しをしたそうです。感謝の気持ちを伝えたい復生院の患者たちは、せめてお召し列車だけでも見送りたいと希望しましたが、差別が激しかった時代、警備当局は患者が沿線に立つことを禁じました。これを聞いた皇后は「遠慮はいらない」と一喝し、見送りが実現しました。病院近くの沿線で、目印の日の丸を持って立つ患者30人は信じられない光景を目にします。菊の御紋がまばゆい列車が通り過ぎようとしたとき、窓が開き、奥で皇后が答礼していました。お姿が見えたのはほんの数秒でしたが、患者たちの涙はぬぐってもぬぐっても止まりません。
 
 今朝の産経新聞のコラムの最後はこう締めくくられています。「お召し列車の汽笛と、嗚咽混じりの万歳が、御殿場の山々にこだました。」ここまで読んだとき、わたくしの涙腺は緩んでしまいました。あらためて貞明皇后のお人柄の素晴らしさに感銘を受けました。