広島市議会議員(安芸区)

昭和天皇の摂政就任をめぐる内幕

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。
 

 産経新聞に連載されている「朝けの空に〜貞明皇后の66年」を興味深く読んでいます。きょうは第99話です。明治の藩閥政治の象徴である山形有朋を葬り政権を担った平民宰相=原 敬は着々と足元を固めつつあった大正10年11月4日、東京駅でテロに斃れます。原なき後の摂政問題は宮内大臣牧野伸顕吉田茂の岳父)に引き継がれます。間を置かずして11月21日、摂政設置のための皇室会議が開かれます。翌22日には牧野と内大臣松方正義大正天皇に拝謁し、摂政設置の了承を求めました。牧野の日記には大正天皇は、「アーアーと切目切目に仰せられ御点頭」するだけだったと冷めた見方で書いています。筆者は、「これが事実でも原ならこんな書き方はしない。牧野には大正天皇への理解が不足していた」と書いています。同月25日には、皇室会議と枢密院会議は裕仁皇太子の摂政就任を議決します。併せて宮内省大正天皇の病状について発表します。「歩行困難や言語障害などは、総て御脳力の衰退に原因し、御脳力の衰退は御幼少期の時御悩み遊ばされたる御脳病に原因するものと拝察」との内容です。筆者は大正天皇への国民の敬慕を断ち切るような配慮を欠いた発表だと批判しています。御脳力の衰退が強調されたことで、大正天皇に対する誤ったイメージが広がり、それが現在まで続いているとも述べています。大正天皇は書類決済のために押す御印の受け渡しを「一度は之を拒ませられた」そうです。大正天皇は十分な判断力を失っていても、本能的に天王の責務を果たさなければならないと考えていました。
 文末にはこうあります。「天皇不在で決まった摂政設置。その夜おそらく、貞明皇后は泣いた。日中の出来事を忘れ、寝息を立てる大正天皇のそばで、声を押し殺し、一晩中泣き続けた。」


 こうした経緯を思うとき、昨年8月の今上陛下のお言葉にある摂政設置に関する内容の意味が大きくなります。