広島市議会議員(安芸区)

空手はここまでレベルが高くなった。

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。少しずつ冬に近づいています。山では紅葉が見事です。



 
最近、空手の国際大会を見ていますが、世界大会のレベルの高さに驚きです。スピード、技の切れなどはもちろんですが、選手はそれぞれに相手を研究しているので、同じ相手に連勝することは非常に困難です。これは、組手だけでなく型についても言えます。
 いつも素晴らしい試合に感服です。素人が見ると、あまりにもスピードが速いので、どちらの選手のポイントなのかわからないことも多いでしょう。一度ご覧になってください。勝手に世界選手権を名乗っている流派とのレベルの違いがおわかりいただけるでしょう。
 次回はBS1で、11月19(月)AM0:00〜1:40にベルリン大会が放映されます。絶対に飽きることなくご覧になれます。お楽しみに。

アメリカ本土を爆撃した男(最終章)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 平成2年5月24日、藤田は三たびブルッキングスへ向けて出発します。このとき持参した鯉のぼりは市の中心部にある電力会社の大きな鉄柱に翻りました。市民はジャパニーズ・カープ喝采しました。
 翌朝、藤田は市役所を訪ねます。市長は、藤田の再訪を機に、条例で5月25日を「藤田信雄デー」と定めたことを伝えます。
 

 (藤田が寄贈した軍刀を持つブルッキングス市の三人娘)

 藤田は平成4年9月にもブルッキングス市を訪れます。爆弾を投下してちょうど50年のことです。このとき藤田は、爆弾を落とした森に行きます。そこにはこんな表示板がありました。「日本軍爆弾落下地点。第二次世界大戦中、アメリカ大陸に落とされた唯一の爆弾(1942年9月9日)」
 

 藤田はここで、森林警備員が用意してくれたレッドウッドの苗木を表示板の傍に植えます。「50年かかってやっとできました。この1本の苗木で、私が米本土に及ぼした被害の償いが・・・。これでかつての敵地に第2の故郷を持つことができました。」

 平成9年9月29日、藤田は息を引き取ります。86歳の誕生日まで2週間のことです。死の3時間後、ブルッキングス市から名誉市民章が届きます。
「布告 オレゴン州ブルキングス市議会
 藤田信雄氏は長年の及ぶ我が市の友人であるとともに我々の誇りでもある。氏は我が市のいわば親善大使として尽力され、我が市に寛大なる贈り物と精神の慈しみを与えた。
 氏は二つの文化を分かち合うことにより平和の絆を創り上げ、永遠に失われることのない功績を残した。
 よってブルッキングス市議会は氏を名誉市民として讃え、永久に顕彰することを決議した。
 1997年9月22日 ブルッキングス市長 ナンシー・ブレンドリンガー」

 藤田の一周忌が爆弾が投下された場所で営まれました。そこに遺骨の一部が埋められています。
 
 これほどまで、武士道精神、帝国軍人精神を具現した日本人がいたことを知らなかったことを恥ずかしく思います。

アメリカ本土を爆撃した男(5)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 素晴らしい秋晴れです。冬はもう間近です。

 自らが育て上げた藤田金属は、長男に譲ってわずか2年半で倒産します。70歳を前にして、藤田は元部下を頼って工場に就職します。そこでは年下の工員のいじめもあったようですが、人望で数年後には工場長に抜擢されます。その間、少しずつ貯めた金が100万円になったのを機に、ブルッキングス市の高校生3人を、地元で開催される「つくば万博」に招待します。ブルッキングス市では青年会議所が中心になって選考委員会を開き、女子高生3人を選びます。さらにもう一人、22年前のブルッキングス市のパレードの時、藤田のそばをミニカーで動き回っていた坊やもそのグループ加わります。その坊やは、自分ほど藤田を知る者はいない、自分を招待しないのはおかしいと自薦しました。
 昭和60年7月8日、青年会議所のモーラン会長が率いる一行が土浦に到着します。藤田がブルッキングス市に招かれて23年がたっていました。ホテルでの歓迎会で、挨拶に立ったモーラン会長からサプライズが飛び出します。
 「藤田信雄元海軍中尉殿、貴殿の厚意と惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は、貴殿の立派で、また勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります。ロナルド・レーガン
 なんと、レーガン大統領からのメッセージが寄せられていたのです。モーラン会長に託された星条旗には、「ミスターフジタに渡すために5月1日、ワシントンのホワイトハウスに丸一日掲揚した」との証明書が添えられていました。レーガン大統領の粋な計らいでした。

 続きは次回のお楽しみ。

アメリカ本土を爆撃した男(4)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 天下分け目のアメリ中間選挙が始まりました。トランプ大統領になって国民は分断されて、歩み寄れないほどの対立が深まりました。かならずしもトランプだけの罪でもないような気もします。


 藤田がブルッキング市役所前に来ると、ほぼ半数の市民が藤田を一目見ようと集まっていました。刀袋を握りしめた藤田が車から降りると、大歓声が沸き起こります。中には拍手しているものもいます。意表を突かれた藤田は呆気にとられ、その場に立ち尽くします。カメラのフラッシュの嵐で藤田の力が抜けます。
 ここに至るまで、在郷軍人会などには、「キューバカストロを招くようなものだ」とか、「なぜ3000ドルの大金を使ってかつての敵を招待するのか」などの反対の声が多くありました。抗議運動はエスカレートし、藤田を招いた青年会議所会員の店が襲われる事故もありました。しかし、日米親善のためにという、青年会議所の説得が功を奏します。
 以下はブルッキング市の歓迎晩さん会での藤田のスピーチの概要です。謝意のあと、続きます。
アメリカ合衆国への私の訪問は、今回で2度目です。最初の訪問は20年前でした。不幸にも当時は両国は戦争状態にありました。私も帝国海軍のパイロットとして任務を遂行しました。
中略
 「この度の私どもの訪問は、あなた方すべての寛容なお気持ちによって実現されました。
中略
 「第二次世界大戦では日本人もアメリカ人も、否、世界の多くの人々が犠牲になりました。日本人もアメリカ人も戦争の愚かさを悟ったと思います。あまりにも多くの代償を支払ったからです。戦争を防ぐにはお互いが友人になることです。日本とアメリカ合衆国はかつて敵同士でした。しかし、今私たちは友情というキズナで深く結ばれており、世界平和に貢献しています。」


 ここで藤田は持ってきた日本刀の説明をします。切腹用だとは言えません。
「この軍刀は私の魂です。片時も離さず、もちろんオレゴン州出撃の時も身に付けておりました。しかし、もう私には必要ありません。これを貴市に寄贈させていただきます。」
 このスピーチは市民の心を打ち、翌朝の新聞には、「フジタ、サムライの魂を市長に贈る」と絶賛されます。

 そして藤田はこう締め括ります。
「私は一生、このご厚情を忘れないでしょう。私にこのような機会を与えてくださったブルッキング市民のみなさまに心から感謝いたします。私は本日が生涯最良の日であろうと信じます。」

 人々は総立ちになり、スタンディングオベーションが鳴りやみません。このとき、杖をつき、足を引きずりながら一人の男性が近づいてきます。フィリピンバターン半島で日本軍の捕虜になり、終戦まで北九州で強制労働させられたローガン・ケイ元陸軍少尉です。二人は会場の中央で固い握手を交わします。   
 ケイは藤田の耳元で囁きます。「過去を忘れて、お互い祖国の繁栄と、日米両国の親善、ひいては人類の幸福という大きな目標に向け努力しましょう。」

 大歓声の中、今度は青年が近づいてきます。
「これは消防団員だった父があなたの投下した爆弾で起きた火災の消火に出動したとき、現場に落ちていた日本軍の爆弾の破片です。父はもうなくなりましたが、あなたが来られたのでこれをお返しします。日米友好の証としてどうか受け取ってください。」
 藤田が手に取ると、あのときの焼夷弾の匂いがかすかに残っていました。
 以下は次回のお楽しみ。

アメリカ本土を爆撃した男(3)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 戦後、藤田は海軍将校としてのプライドを投げ捨て、金物の行商から身を起こし、藤田金属を経営し、茨木県内で有数の会社に育て上げます。しかし、息子に会社を譲って、わずか2年半で約15億円の負債を抱えて倒産します。
 69歳の藤田は、ここから恥を忍んで元の部下が経営する会社に就職し、その後工場長にまで昇進します。その間の苦労は並大抵ではありませんでした。
 昭和37年に、爆撃したオレゴン州ブルッキングス市長から外務省を通じて招待状が届きます。単機でアメリカ本土を爆撃した勇気ある英雄的な行動を称え、日米友好親善を図りたいとの趣旨です。藤田自身も、戦争とはいえ、アメリカ本土を爆撃した敵側の人間を招待することの真意を測りかねます。
 そんな折、ときの大平正芳官房長官が藤田に面会を求めます。まだ対日感情が悪い時代に、政府としては現地商社を通じて陰ながら支援はするが、正式な関与はできず、渡米して万一報復を受けても日本政府はあなたの身を守ることはできないといわれます。
 しかし、藤田は帝国軍人として、万一の場合は彼の地で腹を切るつもりで日本刀を持って乗り込みます。その時のスピーチはアメリカン人の心を打つ素晴らしいものでした。続きは次回のお楽しみ。