広島市議会議員(安芸区)

フランス革命の日です。

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。
 衆議院総選挙が8月31日に行われることが決まりました。先の東京都議会議員選挙では自民党が惨敗しましたが、都議会議員選挙に関する報道では相手の失点を突く姿勢が目立ちました。東国原宮崎県知事を擁立しようとした自民党鳩山代表や小沢前代表の政治資金問題を抱える民主党、それぞれ相手を非難するばかりで、最も大切な、これからのことをどうするのかが等閑にされていました。国民がしらけるのも当然でしょう。わたくしは自民党員ですが、もはや自民党には希望を失いました。自民党は党内の権力闘争に明け暮れ、いまだにマニフェストさえ示していません。これでは国民の支持を得ることはできないでしょう。それにしても、東国原知事の顔つきは元のタレント時代の軽さに戻りしましたね。
 さて、今日7月14日はフランス革命勃発の日です。同革命は1789年の今日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃したことに始まります。当時フランス国民は財政赤字による重税に苦しんでいました。特権階級である王侯貴族は贅を楽しみ、国民の心は離れてゆきました。
 当時のルイ16世の王妃、マリー・アントワネットが王の妹に送った手紙が残っています。
 「妹よ、あなたにこそ、これを最期と手紙を書きます。わたしは判決を、ただし恥ずべき死刑の判決ではなくて、死刑は犯罪人にとってしか恥ずべきものではないのです。あなたの兄上の所に逢いに行くように、その判決を下されたのです。」 アントワネットの毅然として従容として死に旅立った姿が眼に浮かぶようです。彼女はオーストアの女帝、マリア・テレジアの15番目の子として生まれました。姉の何人かが修道院に入ったのに比べて、フランス王妃という最高の地位を与えられました。オーストリアのハプスブルグ家は婚姻外交を家訓としました。「愚かなる家は戦争せよ。わがハプスブルグ家は結婚する」という言葉が残っています。ハプスブルグの顎(あご)という言葉があります。これはツンと尖った細い顎で、ハプスブルグ家の特徴とされています。アントワネットの肖像画もその特徴がよく表されています。女性はチャーミングな印象ですが、男性は少々ひ弱な感じがします。
 アントワネットが生まれた1755年当時、「三つのペチコートがヨーロッパを支配している」という言葉がありました。ペチコートとはスカートの下に付ける女性用の下着ですが、先の言葉は三人の女性がヨーロッパを支配しているという意味です。その三人とは、オーストリアの女帝マリア・テレジア、フランスのルイ15世の寵妃ポンパドゥール夫人、そして、ロシアの女帝エリザベータです。この三人の女性がヨーロッパを動かしていました。これに対抗したのがプロシアのフリードリッヒ大王でした。オーストリア王位継承戦争でプロシアに広大な領土を奪われたオーストリアのマリア・テレジアはプロシアに対抗するために長年の宿敵であったフランスに接近しました。マリア・テレジアとポンパドゥール夫人との合意で行われたのがフランスのブルボン家、ルイ16世とマリー・アントワネットの婚姻だったのです。当時のヨーロッパの権力闘争のすさまじさを改めて思いいたしています。