広島市議会議員(安芸区)

唱歌「我は海の子」の歌詞の素晴らしさ

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 先日、故郷の元宇品の海岸を歩いているとき、唱歌「我は海の子」を口ずさんでいました。歌詞は全て覚えていませんが、自分の幼い頃の思い出と重なって心が洗われるようでした。

 この唱歌は1910年(明治43年)発行の文部省尋常小学読本唱歌』に始まります。作詞・作曲者は不明とされています。歌詞は以下の通りです。

 

 我は海の子白浪(しらなみ)の さわぐいそべの松原に、 煙(けむり)たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家(すみか)なれ。

 

 生れてしおに浴(ゆあみ)して 浪(なみ)を子守の歌と聞き、 千里(せんり)寄せくる海の気(き)を 吸(す)いてわらべとなりにけり。

 

  高く鼻つくいその香(か)に 不断(ふだん)の花のかおりあり。 なぎさの松に吹く風を いみじき楽(がく)と我は聞く。

 

 (今の教科書では、以下は載せていません)

  丈余(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて 行手(ゆくて)定めぬ浪まくら、 百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底 遊びなれたる庭広し。

 

  幾年(いくとせ)ここにきたえたる 鉄より堅(かた)きかいなあり。 吹く塩風(しおかぜ)に黒みたる はだは赤銅(しゃくどう)さながらに。  

 

 浪にただよう氷山(ひょうざん)も 来(きた)らば来(きた)れ恐れんや。 海まき上(あ)ぐるたつまきも 起(おこ)らば起れ驚(おどろ)かじ。

 

  いで大船(おおふね)に乗出して 我は拾わん海の富 いで軍艦(ぐんかん)に乗組みて 我は護(まも)らん海の国

 

  2番までしか覚えていませんが、素晴らしい歌詞です。1番では「こそ」と「なれ」の係り結びとなっています。わたくしは2番の歌詞が好きです。意味が分からなくても歌っているうちに日本語の良さが身についてゆくのでしょう。

 最近は学校で教える唱歌は少ないようです。スマップの歌などよりはるかに大切に思えます。

 

 

 

電動アシスト自転車を自力で走行してます

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。 

 緊急事態宣言が続いたため体が鈍っています。最近は電動アシスト自転車をバッテリーを使わずに自力で走らせています。負荷のレベルは1が最も軽く、5が最もきつくなります。レベル5になると、ペダルが重すぎてうまく走り始めることができません。軽いレベルで走り始めて次第にレベルを上げます。レベル5で長い距離を走ると結構な運動量になります。電動でない自転車よりもはるかな運動量です。

ワクチン用の鶏卵は足りるのか?

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。 

 アメリカで新型コロナウィルスのワクチンが製造に近づいたとの記事が出ています。早い製造を願っています。

 ウィルスのワクチンは有精卵を使って作りますが、1個の鶏卵から大量に作れるわけではなく、鶏卵1個で成人用ワクチンは1人分しかできません。

 農水省の統計では、平成29年の日本国内での鶏卵生産量は260万1,173トンです。県別では8.9%の茨城がトップ、広島県は5.0%で第5位です。

 ワクチンを作るためには何千万個もの鶏卵が使われる必要があるでしょう。鶏卵1個の重さは60~70グラムなので、60グラムとしても1000万人分のワクチンを作るためには60万トンもの鶏卵が必要です。数は大丈夫かと少々心配になります。

 

 

100年前に与謝野晶子がスペイン風邪について警告していた。

  いい顔ふやそう。沖宗正明です。 

 

 一部を除いて緊急事態宣言が解除となり、待ちわびていたように各地で人出が増えてきました。第2波が懸念されます。

 しばしば100年前に流行したスペイン風邪が話題となっています。もともとの発生はアメリカの軍隊でした。第1次世界大戦で米兵が各地に派兵され、急速に感染が拡大しました。航空機がなかった時代においては異常な拡大のスピードでした。各国は隠蔽しましたが、スペインで感染が多かったためにスペインにとっては迷惑な濡れ衣でした。

 先日興味深いものを見つけました。1918年11月10日に横浜貿易新報に「感冒の病床から」と題して掲載された記事です。投稿したのは歌人与謝野晶子です。晶子には10人の子どもがありましたが、そのうちの一人が学校でスペイン風邪に感染し、それから家族全員が罹患しました。以下は記事の内容です。

「政府はなぜ逸早くこの危険を防止する為に、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか。

 そのくせ警視庁の衛生係は新聞を介して、成るべく此の際、多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同様の事を子供達に注意して居るのです。

社会的施設に統一と徹底との欠けて居る為に、国民はどんなに多くの避けらるるべき、災いを避けずに居るかも知れません。」

 

 そのころ第1次大戦の特需による好景気を享受していた日本では、政府も民間も「三密」を避けるような行動はとっていませんでした。工場は稼働し、大相撲などの興行も盛況、商店には客が溢れていました。首相の原敬自身が集会でスペイン風邪に感染しています。

 そんな中での晶子の警告は現在にも立派に通用する冷静で厳しいものです。

わたしが新型コロナ感染疑い患者の濃厚接触者になりました。

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。 

 

 5月9日土曜日のことです。89歳の母が通っている内科医院から電話がありました。数日前から発熱があり、当日は38.5度まで上昇し、前日より呼吸音が悪くなっている。新型コロナウィルス感染の疑いもあるので県病院へ搬送してほしいとの内容でした。押取り刀で医院に駆けつけ、母を後部座席に座らせ、県病院へ向かいました。もちろん窓は全開です。県病院までは2~3分の距離です。到着すると係の方の誘導でドライブスルーのPCR検査機器がある場所に行きました。偶然に担当医はわたしのクリニックにアルバイトに来ていただいていた方でした。

 

 入院の準備ができるまで後部座席でぐったりとしている母が堪らなく愛おしく思えました。約1時間後にビニールで完全に覆われた車椅子で搬送されましたが、わたしは院内に入ることができませんでした。その時です。担当のナースから、わたしが濃厚接触者である旨を告げられました。考えれば当然のことですが、両親がともに新型コロナに感染していないことを願い、自分のことは考えていませんでした。改めてアルコールを全身と車内にスプレーし、窓を全開のまま帰宅しました。

 

 数時間後にPCR検査は陰性であった旨の連絡がありました。とはいえ、89歳という高齢者の肺炎です。相当のリスクを覚悟していましたが、今朝県病院から退院となりました。母の不死身ぶりに驚きです。

 改めて最前線での医療関係者に感謝です。