広島市議会議員(安芸区)

アルハンブラ宮殿の思い出

  いい顔ふやそう。沖宗正明です。

  昨日から11日間の会期で広島市議会6月定例会が開会しました。新型コロナ対策の補正予算が中心です。しっかり議論します。

  先日アルハンブラ宮殿の短いニュースがありました。数年前に訪れたことがあり、懐かしく見ました。

  イスラム文化の最高傑作と言われるアルハンブラ宮殿はスペイン南部の地中海に面したアンダルシア州グラナダにあります。グラナダは「ざくろ」を意味する言葉です。ザクロの果汁から作られるグレナデン・シロップもその由来がわかります。

  8世紀の初頭にスペインはイスラム教徒の支配下に置かれました。アルハンブラ宮殿イスラムによって建設されましたが、何度も増築されたため様々な時代の「特徴を残しています。

  11世紀の始まったキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)によってイスラムは次第に勢力を削がれ、最後まで残ったのがグラナダです。レコンキスタスペイン語でReconquistaです。英語のconquest(征服)から連想されるように征服を回復するという意味です。グラナダの陥落は1942年、つまりコロンブスアメリカ大陸を発見した年です。実はコロンブスがイザベラ女王の意を受けて大西洋に向けて出発したのもグラナダからでした。

  レコンキスタを達成した後もスペイン人はイスラム建築を数多く残しました。イスラム建築の素晴らしさを高く評価したからでしょう。美しい幾何学模様に魅了され、広大な宮殿を歩き回り、気が付けば2万歩を越えていました。今でもあの丘に建つアルハンブラ宮殿の威容が目に浮かびます。

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忠臣蔵の決算書(1)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 梅雨の晴れ間でいい天気が続きますが、我がカープは梅雨真っただ中ですね。新型コロナも少しずつ減ってきているようですが、まだまだ安心できないレベルです。

 

 きょうは忠臣蔵の決算書について書きますが、まず藩の財政の基本的なことに触れます。赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が殿中で高家筆頭の吉良上野介義央を切りつけたのは元禄14年(1701年)3月14日です。 

 当時の貨幣価値については、元禄8年に貨幣改鋳が行われたため、インフレが進み、現在の価値に直すと以下のようになります。

 1両=12万円。1両=4分=16朱です。また、寛永通宝1文が30円。当時蕎麦1杯が16文ですから480円です。ちなみに1両=4貫文、つまり4000文です。1両で米が1石3斗買えました。したがって1石は92,300円となります。

 赤穂藩は公称5万石です。5万石は年間の総収入です。ここから筆頭家老大石内蔵助の1500石を始め、家臣たちの給料を支払います。約9割が給料ほかの経費であったようで、藩としては1割の5000石となりますが、四公六民なので6割を農民に与え、残りの4割=2000石が藩独自の収入となります。1石は92,300円なので、2億円弱となります。しかし、新田開発や塩田から得られる良質な塩の運上金などで実際にはその数倍の相当に裕福な財政であったようです。

 家臣の石高、たとえば内蔵助の1500石とは、1500石の収穫が得られる領地を拝領しているという意味です。これを知行取り(ちぎょうどり)と言い、100石以上の藩士を言います。知行取りの藩士も6割を農民に与えるので、内蔵助の取り分は残りの600石。約5500万円となります。ここから自分に仕える奉公人たちの給料を払いますが、相当の収入でした。

とはいえ、それは一部の上級家臣であって、中級、下級の家臣たちは厳しい家計であったようです。彼らは直接藩から米を支給される切米取り(きりまいどり)と呼ばれます。たとえば、大高源五は二十石三人扶持です。二十石は藩の藏から二十石の米が支給される本給という意味です。扶持とは奉公人を雇うための給料で、一人扶持は一日米五合の割合で支給されます。一年では一石七斗七升となります。五人扶持なら八石八斗五升で、合計約三十石となります。このレベルは算用数字より漢数字の方がピッタリ来ます。三十石×92,300円は約280万円ですから楽な暮らしではなかったでしょう。

 

 お取りつぶしとなった赤穂藩の財政上最大の問題は藩札の処理でした。藩札は領内だけに通用する札なので藩として負債です。発行された藩札の合計は約18億円で、藩財政に匹敵する額でした。藩札は現物の銀と引き換えができる兌換紙幣です。赤穂藩では「札座(さつざ)」という役所で交換していました。刃傷から5日後の3月19日には藩札を持っていた商人たちが札座に殺到した記録が残っています。豪商は相当な情報網を持っていたのでしょう。藩は藩札交換のための準備金を発行額に等しい額の積み立てを行っていましたが、借金の担保などで実際には4億円が不足していました。藩は本家の広島浅野家に融資を頼みますが、体よく断られます。そこで内匠頭の妻の実家、三次藩に依頼し承諾を得ました。

 赤穂藩が倒産したため、結局藩札は額面の6割で交換することで決着を見ますが、実際には藩が把握していた額の3倍もの藩札が交換されました。札座役人の不正や偽札があったと推察されます。

 藩の所有していた財産はすべて売却されました。17艘の船や、道具、武具や鉄砲・槍、兵糧米などが売り払われました。4月19日に赤穂城を開城しましたが、大石内蔵助がすべての藩財政の処理を終えて会計を締めた時、手元に残ったのはわずか約700両=8,400万円ほどでした。(以下は次回)。

A級戦犯散骨の日

  いい顔ふやそう。沖宗正明です。

  A級戦犯7人の遺骨が太平洋に散骨されていたことが報道されました。元米国軍少佐の証言によって、これまで言われていたことが真実だったことがわかりました。  

  指導者の遺骨や墓が後世に神格化されることを恐れて遺骨を廃棄することは良く行われます。今回も同様であったのでしょう。処刑が行われたその日のうちに散骨が行われました。

  しかし、問題はそれが行われた日です。昭和23年12月23日。現上皇明仁陛下15歳の誕生日です。アメリカは日本人の大きな慶びの日を選んで処刑を行いました。

  昭和天皇を始め皇室のお嘆きはいかばかりであったでしょう。無辜の民を大量に殺戮した原爆投下を始めとした無差別爆撃や今回のことなど、日本人として忘れてはならないことでしょう。

 

今日はミッドウェー海戦の日

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 昭和17年の今日、ミッドウェー海戦がありました。4隻の空母、加賀、蒼龍、飛竜、赤城が撃沈され、連合艦隊が事実上壊滅し、日本の敗戦が決まった戦いと言っても過言ではないでしょう。真珠湾で華々しい戦果を上げてからわずか半年です。以後は負け続けて、3年後に終戦を迎えることになりました。

 軍部を含めて為政者たちは、その3年間に停戦すべきであったと返す返すも悔やまれます。そうであったなら、今のように中国の増長を許すこともなかったでしょうし、韓国の非礼な振る舞いもなかったでしょう。

 安芸区矢野に、ミッドウェー海戦に従軍した方がいらっしゃいました。数年前に亡くなられましたが、その眼光の鋭さは90歳を過ぎても衰えることがありませんでした。まさに帝国軍人を具現したような方でした。その方の前に出るときには緊張したものです。

一気に読んだ「弱い男」、「お迎え体験」、「警視庁科学捜査官」

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 昨夜ほろ酔いで早めに床に就きました。深夜に眼が覚めて上の3冊を一気に読みました。おかげで寝不足です。

 

  「弱い男」は昨年2月に亡くなった、野村克也さんの著書です。試合後のぼやきは良く知られていましたが、データを重視した名将、知将の印象でした。ところが、この中では一貫してぼやきが書き連ねられ、自ら弱さをカミングアウトています。沙知代さんが亡くなって弱気になったのが大きく影響したのでしょう。高齢の男やもめの悲哀が伝わってきます。

  父親が戦死したため、幼い頃は町内で一番貧しかったと回想しています。選手として南海ホークスロッテオリオンズ西武ライオンズ、監督としてヤクルト、阪神楽天を歴任していますが、そのうち沙知代さんが原因で南海と阪神を解雇されています。

  克也さんは沙知代さんのことを「ドーベルマンのような女」と表現しています。銀座のホステスから電話があると、電話を取り上げ、相手を恫喝した後、その携帯は「すぐお亡くなりになった」そうです。一体何本の携帯を折られたことか?と笑わせます。さらに彼女が語っていた経歴は全部ウソだったとも述べています。実の子どもを「拾ってきた」だなんて嘘をつく女が他にいるものかとも書いています。その一方で「野村克也―沙知代=ゼロ」とのろけています。

  終わりに、「沙知代がいたから、こんな弱い自分が何とか生きて来られた。私は本当に幸せだった。」と述べた上で、「さて、どんな死に方をするかな。もう十分にいきたよ。」と結んでいます。

  はじめて野村克也さんの実像に触れて、改めてその偉大さに感服です。

  あとの2冊については別の機会に。

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