広島市議会議員(安芸区)

親友の訃報

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。


 昨夕、携帯電話に着信がありました。発信者の表示は古くからの親友Yの名前でした。「久しぶりだな」と応じると、「Yの息子です」との返事。途端に嫌な胸騒ぎがしました。果たして、Yが前日に吐血して、昨日の昼前に息を引き取ったとのことでした。普段通りに仕事もしていたので家族にとっても予期せぬ死でしたが、ここ最近は肝臓と腎臓を患い、必ずしも体調は良くなかったようです。


 わたくしは岡山大学へ入学して、ある学生アパートに入居しました。同じアパートの隣室に住んでいたのがYでした。Yが、わたくしが聞いていたステレオの音がうるさいとネジ込んできたのが始まりでした。入学直後でしたから、もう47年前のことになります。Yは飛騨高山の出身で、いまマスコミを賑わしている岡山理科大の新入生でした。すぐに意気投合して二人して遊び回りました。徹夜で麻雀をして、寝ることなくパチンコの開店に駆け付けて小銭を稼ぎ、共通の趣味であったビリヤード(四つ球)を数時間楽しみ、飲みに出かけたものでした。ビリヤードの腕前はYの方が上でした。30時間以上も連続して麻雀を打ったこともありました。若かったのでそんな無茶なことも全く苦になりませんでした。学生アパートが閉鎖されたため、別々のアパ−トに入居した後も、お互いに行き来しました。数ケ月間Yの部屋に居候をしたこともありました。大学3年の春休みには岡山から兵庫県の建設現場までポンコツの軽自動車でアルバイトに通ったこともありました。


 同じ年の夏休みのある日、川へ遊びに行きました。対岸まで泳ごうと二人で飛び込みました。川幅はかなり広かったのですが、わたくしは泳ぎには自信があり、Yも飛騨高山ではよく川で泳いでいたこともあり、なんの不安もありませんでした。ところが対岸はカーブしていて激流となっており、急に深くなっていました。わたくしはやっとのこと先にたどり着いてゼイゼイと息を整えていました。しばらくして後ろを見たのとYが助けを求めたのが同時でした。いまでも引きつった顔で「た、助けてくれ」と言った光景が忘れられません。大きな声で助けを呼んでも近くには誰もいません。わたくしはまだ息が整っていなかったのですが、迷うことなく飛び込みました。何度も一緒に沈みながら、なんとか岸に上がりました。まさに九死に一生を得た思いで、二人とも当分の間、言葉が出ませんでした。そのあと、大柄なYに抱き疲れていたら二人とも水死した可能性があったことに気づいて、急に恐怖感が沸き上がりました。後年、「お前が生きているのは俺のおかげだ」と皮肉ったものです。



 学生時代に飛騨高山のYの実家に泊まった時のことです。二人で痛飲し、いつの間にか寝てしまいました。酔いつぶれていたわたくしは、あろうことか夜中に床の間の掛け軸に小便を掛けてしまいました。ご尊父が大切にしていたであろう掛け軸には見事なシミが残りました。後でこの話を蒸し返しては二人で笑いました。


 

  30歳前後でYは故郷の飛騨高山に帰り、地元の農協に勤務したあと、30年近く奥様とスナックを経営していました。別々に2軒の店舗を持っていた時もありましたが、最近では1軒に絞って夫婦で店に出ていたようです。長身に蝶ネクタイがよく似合っていました。先日、岡山に行ったとき、学生時代にYと遊び回った場所を散策しました。40年も経っているのに残っている店もありました。剥がされた看板の跡もいくつかありました。



 わたくしの青春はYとともにありました。そんな掛けがえのない親友の訃報です。心の中に大きな穴が開きました。週末の予定をキャンセルして飛騨高山での通夜と告別式に参列し、Yに最後の別れを告げます。