広島市議会議員(安芸区)

アメリカ本土を爆撃した男(5)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 素晴らしい秋晴れです。冬はもう間近です。

 自らが育て上げた藤田金属は、長男に譲ってわずか2年半で倒産します。70歳を前にして、藤田は元部下を頼って工場に就職します。そこでは年下の工員のいじめもあったようですが、人望で数年後には工場長に抜擢されます。その間、少しずつ貯めた金が100万円になったのを機に、ブルッキングス市の高校生3人を、地元で開催される「つくば万博」に招待します。ブルッキングス市では青年会議所が中心になって選考委員会を開き、女子高生3人を選びます。さらにもう一人、22年前のブルッキングス市のパレードの時、藤田のそばをミニカーで動き回っていた坊やもそのグループ加わります。その坊やは、自分ほど藤田を知る者はいない、自分を招待しないのはおかしいと自薦しました。
 昭和60年7月8日、青年会議所のモーラン会長が率いる一行が土浦に到着します。藤田がブルッキングス市に招かれて23年がたっていました。ホテルでの歓迎会で、挨拶に立ったモーラン会長からサプライズが飛び出します。
 「藤田信雄元海軍中尉殿、貴殿の厚意と惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は、貴殿の立派で、また勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります。ロナルド・レーガン
 なんと、レーガン大統領からのメッセージが寄せられていたのです。モーラン会長に託された星条旗には、「ミスターフジタに渡すために5月1日、ワシントンのホワイトハウスに丸一日掲揚した」との証明書が添えられていました。レーガン大統領の粋な計らいでした。

 続きは次回のお楽しみ。

アメリカ本土を爆撃した男(4)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 天下分け目のアメリ中間選挙が始まりました。トランプ大統領になって国民は分断されて、歩み寄れないほどの対立が深まりました。かならずしもトランプだけの罪でもないような気もします。


 藤田がブルッキング市役所前に来ると、ほぼ半数の市民が藤田を一目見ようと集まっていました。刀袋を握りしめた藤田が車から降りると、大歓声が沸き起こります。中には拍手しているものもいます。意表を突かれた藤田は呆気にとられ、その場に立ち尽くします。カメラのフラッシュの嵐で藤田の力が抜けます。
 ここに至るまで、在郷軍人会などには、「キューバカストロを招くようなものだ」とか、「なぜ3000ドルの大金を使ってかつての敵を招待するのか」などの反対の声が多くありました。抗議運動はエスカレートし、藤田を招いた青年会議所会員の店が襲われる事故もありました。しかし、日米親善のためにという、青年会議所の説得が功を奏します。
 以下はブルッキング市の歓迎晩さん会での藤田のスピーチの概要です。謝意のあと、続きます。
アメリカ合衆国への私の訪問は、今回で2度目です。最初の訪問は20年前でした。不幸にも当時は両国は戦争状態にありました。私も帝国海軍のパイロットとして任務を遂行しました。
中略
 「この度の私どもの訪問は、あなた方すべての寛容なお気持ちによって実現されました。
中略
 「第二次世界大戦では日本人もアメリカ人も、否、世界の多くの人々が犠牲になりました。日本人もアメリカ人も戦争の愚かさを悟ったと思います。あまりにも多くの代償を支払ったからです。戦争を防ぐにはお互いが友人になることです。日本とアメリカ合衆国はかつて敵同士でした。しかし、今私たちは友情というキズナで深く結ばれており、世界平和に貢献しています。」


 ここで藤田は持ってきた日本刀の説明をします。切腹用だとは言えません。
「この軍刀は私の魂です。片時も離さず、もちろんオレゴン州出撃の時も身に付けておりました。しかし、もう私には必要ありません。これを貴市に寄贈させていただきます。」
 このスピーチは市民の心を打ち、翌朝の新聞には、「フジタ、サムライの魂を市長に贈る」と絶賛されます。

 そして藤田はこう締め括ります。
「私は一生、このご厚情を忘れないでしょう。私にこのような機会を与えてくださったブルッキング市民のみなさまに心から感謝いたします。私は本日が生涯最良の日であろうと信じます。」

 人々は総立ちになり、スタンディングオベーションが鳴りやみません。このとき、杖をつき、足を引きずりながら一人の男性が近づいてきます。フィリピンバターン半島で日本軍の捕虜になり、終戦まで北九州で強制労働させられたローガン・ケイ元陸軍少尉です。二人は会場の中央で固い握手を交わします。   
 ケイは藤田の耳元で囁きます。「過去を忘れて、お互い祖国の繁栄と、日米両国の親善、ひいては人類の幸福という大きな目標に向け努力しましょう。」

 大歓声の中、今度は青年が近づいてきます。
「これは消防団員だった父があなたの投下した爆弾で起きた火災の消火に出動したとき、現場に落ちていた日本軍の爆弾の破片です。父はもうなくなりましたが、あなたが来られたのでこれをお返しします。日米友好の証としてどうか受け取ってください。」
 藤田が手に取ると、あのときの焼夷弾の匂いがかすかに残っていました。
 以下は次回のお楽しみ。

アメリカ本土を爆撃した男(3)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 戦後、藤田は海軍将校としてのプライドを投げ捨て、金物の行商から身を起こし、藤田金属を経営し、茨木県内で有数の会社に育て上げます。しかし、息子に会社を譲って、わずか2年半で約15億円の負債を抱えて倒産します。
 69歳の藤田は、ここから恥を忍んで元の部下が経営する会社に就職し、その後工場長にまで昇進します。その間の苦労は並大抵ではありませんでした。
 昭和37年に、爆撃したオレゴン州ブルッキングス市長から外務省を通じて招待状が届きます。単機でアメリカ本土を爆撃した勇気ある英雄的な行動を称え、日米友好親善を図りたいとの趣旨です。藤田自身も、戦争とはいえ、アメリカ本土を爆撃した敵側の人間を招待することの真意を測りかねます。
 そんな折、ときの大平正芳官房長官が藤田に面会を求めます。まだ対日感情が悪い時代に、政府としては現地商社を通じて陰ながら支援はするが、正式な関与はできず、渡米して万一報復を受けても日本政府はあなたの身を守ることはできないといわれます。
 しかし、藤田は帝国軍人として、万一の場合は彼の地で腹を切るつもりで日本刀を持って乗り込みます。その時のスピーチはアメリカン人の心を打つ素晴らしいものでした。続きは次回のお楽しみ。

アメリカ本土を爆撃した男(2)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。
 アメリカ本土の爆撃に成功して、水偵は帰艦を目指しますが、だだっ広い太平洋では大型の空母でも点でしかありません。ましてや潜水艦では発見は容易ではありません。母艦を発見できなければ命はありません。その時、艦が潜航していれば同様です。米軍機に追跡されれば母艦の位置を知らせることになり、撃沈される可能性があるため、艦は潜航します。藤田ら乗組員3人は、帰艦できない場合は、(1)暗号書を海に沈める。(2)機体が急速に沈没するように破壊する。(3)互いに自決する。ことを決めていました。
 幸いにも米軍機に追跡されることもなく、母艦を発見して、近くに着水しました。機体はクレーンで引き上げられ、分解して艦に収納されました。その間、わずかに7分です。帝国海軍のとてつもない技量です。艦は深く潜航して日本に帰りました。なぜ藤田がアメリカから尊敬されているかは次回のお楽しみ。

アメリカ本土を爆撃した男(1)

 いい顔ふやそう。沖宗正明です。

 この本の題を見たとき、なんのことやらさっぱりわかりませんでした。太平洋戦争時代にアメリカ本土まで往復する航続距離を持った航空機はなく、空母さえアメリカ本土近くまで侵入することは不可能でした。まさかアメリカ本土を爆撃できたとは?しかも、パイロットはレーガン大統領から星条旗を送られ、爆撃した都市の名誉市民になっています。
 昭和17年4月18日、日本本土が初めて空襲に見舞われました。その5か月後の昭和17年9月9日、日本の爆撃機オレゴン州の森林に焼夷弾を落としました。日本軍がアメリカ本土を爆撃したのは唯一この時だけです。というより、アメリカ本土が爆撃されたのもこの時だけです。


 爆撃したのは、帝国海軍潜水艦伊号25から飛び立った零式小型水上偵察機ゼロ戦とは無関係)に乗った藤田信雄中尉たち3人です。零式水偵は全長8.5メートル。翼、胴体、フロート、プロペラなどに分解されて艦内に収納されていました。これを艦上に出し、組み立てて、76キロ焼夷弾2個を装着します。ここで艦は風上に向いて全速力で走り、カタパルトで水偵を発射します。152キロの爆弾を積んだ水偵は発進した途端に、ガクンと落下します。相当の技量がないと旨く離艦できません。藤田は飛行教官の腕前でした。


しかも、爆弾のせいで時速は140キロしか出ませんでした。セスナよりはるかに遅い速度です。こんな機で米軍機の眼をかいくぐって森林に爆弾を落としました。さて、爆撃に成功しても帰艦が大変です。どうやって潜水艦に戻ったかは次回のお楽しみ。