広島市議会議員(安芸区)

忠臣蔵の決算書(4)

 いい顔ふやそう。沖 宗正明です。

 6月13日、7月4日、7月23日に忠臣蔵の決算書(1)、(2)、(3)を書きました。今回は決算の締め括りです。 

 旅費以外に大きいのが難儀する旧藩士の生活扶助費です。江戸詰めの藩士の多くはそのまま江戸に残りましたが、赤穂在住の藩士たちは大阪、伏見、京都などに移っています。浪人暮らしは蓄えを食い潰す生活です。多くの下級武士は長屋暮らしをしながら内職などで糊口を凌いでいました。最下級クラスのニ十石五人扶持であった大高源五は金一分を毎月の食事や支払いに当てています。現在の価格で約3万円です。ギリギリの生活です。多くは金二分=6万円程度で暮らしていたようです。困窮した旧藩士たちへは数両単位で金が渡されています

 

 内蔵助のエピソードで知られているのが祇園一力茶屋での豪遊です。かなりの出費であったようですが、金銀請払帳には記載がありません。内蔵助個人の出費であったようです。

 

 8月末には手持ちは二百両を切っており、旧藩士たちが江戸に下る旅費を考えると足りなくなる恐れがありました。内蔵助は最後の旅費を一人三両と決めていましたが、金銀請払帳には記載がありません。これも乏しくなった軍資金を考えて、内蔵助が個人的に出費したのでしょう。この時点で残金はわずか六十両になっています。

平均ひと月6万円でも47人では280万円が必要です。もう時間的余裕もなくなっていました。元禄15年12月14日に討ち入っていますが、金銭的に追い込まれていたという面もあります。

 さて、最後は討ち入り道具の購入です。金銀請払帳には槍が金二分(6万円)、長刀だと金一両(12万円)、着込(鎖かたびら)と前頭部を保護するための鉢金が合わせって金一両二分(18万円)などが数人分しか記載がありません。さらに木製の梃子や兵を乗り越えるための鉤、鎹(かすがい)、まさかり、鉄槌、松明などは書かれていません。全部合わせると相当の金額になりますが、これも内蔵助が個人で出したのでしょう。もはや手持ちの金は尽きていたことが伺えます。

 

 内蔵助が討ち入り前に金銀請払帳を締めて決算したのは、討ち入り準備をほぼ終えた元禄15年11月の事でした。決算書が亡君の未亡人、瑶泉院の側用人である落合与左衛門に届けられたのは討ち入り当日の12月14日でした。事前に漏れることを恐れたのでしょう。内蔵助が討ち入りを見据えて金を残したことには感服します。平時には昼行燈と呼ばれたと言われていますが、彼は間違いなく乱世のリーダーでした。今の日本に欲しいですね。

 次回は最終章として内蔵助や上野介の縁者がどうなったかを書きます。