広島市議会議員(安芸区)

わが国の医療の崩壊が近づいています

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。
 去る12月7日(金)に一般質問に登壇し、(1)文化行政、(2)住民基本台帳ネットワーク、(3)救急医療体制について質問しました。この中では救急医療体制に最も重点を置きました。また、わが国の医療が崩壊の危機にあることを強く訴えました。秋葉市長や多くの議員から賛同を得ました。少し長いのですが、以下はその内容です。

 最後に本市の医療体制について質問をいたします。
 今回のわたくしの質問のなかでは、この問題に最も比重を置きます。先の定例会での松坂議員の質問と重複しないように心がけながら、わが国の医療の現状と、否応なしにそれに巻き込まれる本市の医療、なかんずく救急医療体制についてわたくしの見解を交えて質問をいたします。
昨年12月25日から広島市民病院で24時間365日体制の救急診療が始まりました。それまでは同院の救急患者数は毎月1000人程度でほぼ一定していましたが、これ以降激増し、現在では毎月2500人を超えています。もっとも多かったのは今年3月で3500人にも達しました。このうち80%はウオークインと呼ばれる、自分で受診する軽症患者です。これに伴ってと言えるか否か明らかではありませんが、病院群輪番制病院での急患の受け入れ患者数は減少傾向にあります。また、一般開業医も広島市民病院に甘えてか、救急患者を診ない傾向が高まっています。
第3次救急医療機関であるべき広島市民病院の医師は、一次救急に勢力をそがれ、ほとんど睡眠を取れない激務の当直に就いており、慢性的な疲労が蓄積しています。また、医療訴訟が多発する現在の救急現場において、恐るべきは待合室での患者の急変です。統計的に500人に一人は、急性心筋梗塞や頭蓋内出血などのような死に至る重篤な疾患でありながら自力で来院するといわれています。万一、待合室で心肺停止が起きたら訴訟になる危険性は相当高くなります。現在のような体制でER型救急医療を行えば早晩、医療訴訟に発展することが予想されます。現場の医師たちはER外来において専門外診療と医療訴訟の恐怖におびえ、士気は明らかに低下しています。それについては、診察の優先順位を司るトリアージナースの充実をさらに図らなくてはならないと考えますがいかがでしょうか。
 もはや広島市民病院へのしわ寄せは限界に来ています。広島市全体としての取り組みが必要です。今後の本市の救急医療体制についての認識をお答え下さい。わたくしは以前から広島市民病院は高度専門医療に特化すべきであり、一次救急に携わるべきではないと考えておりますがいかがでしょうか。
 また、アメリカでは3万人のER型救急医が認定されています。それに対してわが国ではER型救急医を育成するカリキュラムがありません。本市においてER型救急医を育成するお考えはないのでしょうか。
 昨年の12月定例会において請願第38号「安佐地区時間外診療所開設について」が採択され、安佐地区の救急医療情勢が改善されるものと期待されました。しかし、安佐医師会の小児科部会の協力が得られないことなどから現段階では実施は困難であるようです。これにより本市の救急医療体制は見直しを迫られることになりました。そこで広島市医師会が進めようとしている夜間診療所についての進捗状況をお答え下さい。

 いま、わが国の医療は崩壊の危機に瀕しています。というより、日本の医療崩壊のスピードは予想をはるかに上回っており、わたくしにはもはや後戻りの出来ない臨界点を超えた感じがいたします。
 2000年のわが国のGDPに対する医療費の割合は先進7カ国で下から2番目の7.6%です。ちなみに最高はアメリカの13.1%、最低はイギリスの7.3%です。7.6%という数字はOECD加盟28カ国の平均9.2%をも大きく下回っています。今より10%増やしても国際標準でしかありません。
 人口10万人あたりの医師の数はOECDの平均290人に対してわが国のそれは206人で第25位です。下位には韓国、メキシコ、トルコが位置していますが、2020年にはわが国が最下位になる見通しです。つまりもはや医療のサービスそのものが足りなくなっています。
 余裕のない医療体制の中で医療費を削減したイギリスがどのような状態になったかを少しくご紹介します。1979年に登場した鉄の女マーガレット・サッチャーによる長年の医療費抑制政策で、イギリスの医療は崩壊しました。入院待ちの患者は常に100万人を超え、手術可能と判断された肺がん患者の 20%は手術を待つ間に手遅れになっています。超音波検査のような簡単なものでさえ数ヶ月待ちです。全英の200の病院の救急部門での、ある一日の調査によると、救急外来で入院が決まってから病棟へ移るまでの待ち時間は平均で3時間32分となっています。これには診察までの時間は含まれておりません。最大では78時間もの間待たされていました。3日と6時間もストレッチャーの上で待たされたことになります。これでは待たされたのではなく放置されていたも同様です。このような状況に患者は怒り、医療従事者への暴力が多発しています。2000年の英国犯罪調査によれば、看護従事者は保安要員に次いで2番目に暴力を受ける危険性が高くなっています。年度末になると予算が底をつき、病院が閉鎖することさえあります。医師の自殺率は同様の専門職の2倍、看護職のそれは同学歴の女性の4倍にも上っており、多くの医師が外国へ逃げ出しています。
 2000年、ブレアー首相は5年間に医療費を50%増やすと宣言しましたが、一度低下した医療従事者の士気と現場の混乱は元には戻らず、現在に至っています。そしていま、医療費抑制政策を採り続けるわが国の医療はイギリスがたどった道を歩んでいます。
 アメリカでは医療保険は民間に委ねられています。ERを訪れた患者に対する最初の質問は「あなたは医療保険に入っていますか」です。保険に入っていない患者は治療を拒否されます。たとえ、保険に入っていても、保険会社が承認しない治療法や医薬品は適応になりません。マイケル・ムーア監督の映画「シッコ」の中で、手の指2本を機械で切断した患者に、それぞれの指をつなぐための費用を示し、患者の選択に委ねるシーンがありました。その患者は「自分は金がなかったから1本しかつなげなかった」と自虐的に語っていました。がんの手術でさえも保険会社が認めず、命を落とした例も紹介されていました。アメリカでは、医療に公定価格はありません。保険会社は安く治療してくれる病院と契約します。逆に病院は保険に加入していない患者には法外な治療費を請求します。保険料が高額なため全米では4500万人が医療保険に加入していないのが現状です。
わが国では医療は、今はまだ「公共財」として運営されていますが、アメリカでは市場原理に委ねて「通常財」として運営されています。したがって患者は消費者となり、金があればいくらでも高度な医療が受けられます。しかし、金がなければ、医療を購入する消費者にはなりえません。アメリカの医師はひどく困った状態の患者を目の前にしても、それなりの同情はしますが、それは自分の仕事ではないと取り合いません。それを社会も非情とか薄情とか非難もしません。アメリカの医療には公平の概念は存在せず、医療にかかれないのは個人の責任と考えます。当然受診抑制が起きます。アメリカの乳児死亡率はGDPの低いキューバより高くなっています。アメリカの個人破産の50%は医療費を支払えないことが原因となっています。しかもその75%は医療保険に加入していながらの破産です。カード破産はわずかに1%でしかありません。アメリカの医療保険制度は、深刻な病気から自己破産へ直行させる医療プランといえます。 
 ヒラリー・クリントンは夫が大統領在職中に健康保険制度の抜本的な改革を試みましたが、保険会社と製薬会社から多額の献金を受けた議員たちの反対で頓挫しました。わたくしは今回ヒラリーが大統領に就任すれば、アメリカの医療が変わるかとも期待しましたが、希望を失いました。なぜなら、彼女もすでに保険会社と製薬会社から多額の献金を受けてしまったからです。アメリカの医療はすでに保険会社と製薬会社に乗っ取られてしまいました。

 翻ってわが国に目を向けると、2006年2月、日本の医療を根本的に変える事態が起こりました。
 2004年12月、福島県立大野病院で胎盤癒着の妊婦が大量出血で死亡した件について、約1年後の2006年2月に、執刀した医師が業務上過失致死と医師法違反の疑いで逮捕されました。この事件は医療界に大きな衝撃を与えました。多くの医師はこの事件を、不可抗力で妊娠に伴うリスクの中に入るものだと主張しました。報告書を見る限り、逮捕された医師は困難な状況に敢然として立ち向かい、大変な修羅場の中で一定水準以上の手を尽くしています。それを、結果が悪かったからといって、逃亡も証拠隠滅の可能性もない医師を逮捕したのです。この事件以来、産科医は相次いで救急現場から離れました。そして、いまわが国の産科救急医療、というより産科医療全体が完全に崩壊しました。さらに、一般救急現場でも医師は萎縮し、困難な患者を受け入れなくなりました。このことは検察、マスコミ、そして国民が等しく受け入れなければならない現状です。 
医療においての3要素があります。まずアクセス、つまりいつでも誰でもどの医療機関にも受診できること。次にコストつまり医療費。3番目はクオリティ、つまり安全性を含めた医療の質です。この3つを高度に同時に満たすことは不可能です。しかし、今となっては昔日のこととなりましたが、かつての日本の医療はこの3つをバランスよく満たし、WHOが認めたように世界一との評価を得ていました。わが国ではこれまでアクセスを保証し、コストを抑制してきました。誰もがいつでもどこの病院でも受診できますが、マンパワーが不足する現在では、当然のことながら待ち時間は長くなり、診療時間は短くなります。必然的に安全性を含んだクオリティは低下せざるを得なくなります。そして、医療の限界と不確実性を認めない患者と社会が医療を攻撃し始めました。
あの訴訟社会のアメリカでさえ、医療従事者は民事訴訟は起こされても、刑事訴追を受けることはありません。
 医療は常に発展し続ける不完全技術です。医師によって治療法も異なります。100%安全な医療などありえません。悪い結果になったからといって、業務上過失致死傷罪を適用すると、医療そのものが内包する性質ゆえに極めて広い範囲まで犯罪となりえます。
 急患を受け入れなければ非難され、治療して結果が悪ければ逮捕される。その結果、医師、看護師を始めわが国の医療スタッフの士気は低下し、病院から立ち去り始めています。

 パチンコ産業の市場規模は30兆円であり、ほぼ医療費に匹敵する規模です。葬儀関係の費用も10数兆円となっています。80年代初頭以降の、医療費が増えると租税、社会保障負担が増大し、日本社会の活力が失われるとの医療費亡国論による医療費抑制の理念はいまや完全に正当性を失いました。それでもなお、日本の医療は医療費抑制と安全要求という相矛盾する二つの圧力に曝されています。医療費抑制政策の中で、もはやこの国には医療を担うだけの体制が整っていません。少ないマンパワーで、十分な医療を提供できるはずがありません。これまでは医療従事者の献身的努力でクオリティを維持してきました。しかし、もはや一部の医療スタッフの肉体的、精神的ストレスは限界を超えてしまいました。わたくしの知り合いの小児科医は2年前に自ら命を絶ちました。今年8月には広島市医師会運営・安芸市民病院の49歳の外科医師が朝亡くなっているのを妻に発見されました。前夜は久しぶりに帰省した息子と楽しく酒を飲んだ翌朝のことでした。
 多くの診療行為は身体に対するダメージを伴いますが、通常は診療行為による利益がそれを上回ります。薬剤は薬理作用による影響が病気の治療に都合がよければ効果と見なされ、それ以外は副作用となります。多くの薬剤は健康人にとって有害無益です。しかも、効果や副作用の程度は個人差があり、確率的に分散します。このように医療は本質的に不確実です。過失がなくても重大な合併症や事故が起こります。診療行為とは無関係の病気や加齢に伴う症状が診療行為の前後に発生することもあります。こうした医療の不確実性は、人間の生命の複雑性と有限性、そして各個人の多様性に由来するものであり、低減させることはできても決してゼロにすることはできません。
 2005年3月、足立区竹ノ塚にある東武伊勢崎線の踏切で女性二人が電車にはねられて死亡する事故が起きました。ラッシュ時には1時間に50分以上も閉まる、開かずの踏み切りでの事件でした。そして、保安係りの男性が逮捕起訴されました。しょっちゅう閉まる踏み切りに保安係りを置けば利用者の不満や非難を浴び、無理をして必ず間違いが起こります。この保安係りはまじめ過ぎた故に手動で遮断機を上げ下げしていました。東武鉄道は彼を懲戒免職にし、刑事司法は彼を有罪といたしました。善良な保安係りを処罰しても今後の安全にはまったく役立たないにも関わらず、この国は彼を見捨てました。システムで解決できることを個人に責任を押し付けました。犯人探しをやりたがるのは日本の社会の一大欠陥です。なんという理不尽で寛容性のない社会なのでしょうか。これがわれわれが目指してきた社会なのでしょうか。

 ハリケーンカトリーナがフロリダを襲ったあと、あちこちで暴行や略奪が起きました。そして、警察は彼らに銃を向けました。それに比べて阪神淡路大震災のとき、暴行略奪は一切起こらず、皆が助け合いました。神戸の指定広域暴力団さえも炊き出しに協力いたしました。われわれはこのようなすばらしい社会を後世に伝えなくてはなりません。
 患者にとって、医療を受けるということは、「泣く覚悟」で臨むことです。自分の大切な命を医療側に預け、痛い処置や検査を受けたり、病気のことについて辛い事実、ときには死に至る宣告をも受け止めなければなりなりません。それに対し、医療側もまた、ともにその辛さを分かち合うという姿勢を持ち、それを「ことば」で伝えなくてはなりません。しかし、現状は医療側と患者側との信頼関係は損なわれつつあります。
 「日本人は変わってしまった。壊れてしまった。いくら制度を変えても医療側に対する攻撃はなくならない。医療の崩壊はもはや止められない。行き着くところまで行くしかない。」とわたくしの知人の広島大学医学部教授が語っています。医療について国民的な議論が避けて通れない時期が来ています。
 現在の日本の医療や教育の混乱は、特殊なひとたちの過大な自由をあまりに尊重しすぎたために、多くの人たちの自由と権利を阻害しているところに大きな原因があります。医療は身勝手な患者によって、まっとうな患者がしわ寄せを受けています。義務教育は身勝手な親に破壊されようとしています。万人の適切な自由と権利を確保するために、特殊な個人の自由を制限すべきときに来ているのではないでしょうか。
 最後にもう一度申し上げます。このまま医療費抑制政策を続ける限り、そして社会が医療の限界と不確実性を受け入れない限り、日本の医療の崩壊は目の前に迫っています。