広島市議会議員(安芸区)

親日国インドに感謝。

 いい顔、ふやそう。沖宗 正明です。
 空気に春の香りがします。


 先日、インドのデリー商工会長、中島敬二氏の講演を聞きました。インドのことを全く知らなかったことを恥ずかしく思えるほど素晴らしい内容でした。その一部を書きます。


 まず、医療のレベルが高いことです。インドには欧米から年間約60万人が手術のために訪れています。心臓バイパス手術は米国で25,000ドル(200万円)。英国で20,000ドル。インドでは6000ドルです。難しい脊髄の手術は米国で20万ドル(1600万円)ですが、インドでは10分の1の2万ドルです。しかも、成功率は米国を凌いでいます。インド人医師は米国内でも信頼度が高く、インドの医療のレベルは世界のトップクラスです。


 平均年齢はなんと25歳。日の出の勢いです。ゴールドマン・サックスの推計では2040年のGDPの世界1位は米国で44兆ドル、2位は中国で35兆ドル、第3位がインドで28兆ドルとなっています。日本は第4位で7兆ドルです。インドの4分の1に落ち込みます。


 極東軍事裁判では、ただひとりインドのパール判事がその違法性を指摘しています。また、サンフランシスコ講和会議では、外国軍(米国)が日本に駐留し続けてはならないとして、講和条約への調印を拒否しました。しかし、その1年後の1952年には日印平和条約が調印され国交が回復しています。今年は国交回復60周年です。


 1955年にインドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議に、日本はインドの支援のおかげで参加が認められています。また、マッカーサーの占領統治時代にインドは日本選手団を招いてくれています。このとき、ニュー・デリーの競技場に日の丸の掲揚が許されました。敗戦後、外国で日の丸が掲揚されたのはこれが初めてのことでした。


 1950年代から60年代の日本は外貨準備が乏しく、厳しい経済状況でした。このころ、インドは鉄鉱石を大量に、安定的に供給してくれています。戦前はインドのタタスティールの技術指導で日本の鉄鋼産業がスタートしています。


 1957年には、ネール首相の好意で上野動物園に小象のインディラが贈られました。インディラはネール首相の令嬢の名前でした。インディラが日本の子供たちをどれだけ勇気づけたことでしょう。大金を取ってジャイアントパンダを貸し出す国とは大きな違いです。


 昭和天皇崩御の際には、インドでは半旗を掲げ、国中で喪に服しました。そして、政府関係のパーティーを3日間自粛しています。これと同様のことをしてくれたのは、インドとブータンだけでした。



 1991年から92年にかけてインドは経済危機に陥り、デフォルト直前までいきました。このとき、日本政府は3億ドルの緊急融資を行い、日銀は2000万ドルの返済を猶予しました。これによりインドは経済危機を乗り越えることができました。その当時の大蔵大臣こそ、現首相のマンマン・シンです。シン首相は当時のことを思い出すたびに涙ぐむそうです。


 2002年には、森首相がインドを訪問し、グローバル・パートナーシップを構築しました。2006年には、安倍首相がインド国会で演説しています。これは胡錦濤もブッシュもなしえなかったことです。その後、日本とインドは毎年相互に政府首脳が訪問しています。日本がこれほど親密な関係を築いているのはインドだけです。



 昨年3月11日の大震災のときには、マンマン・シン首相は菅首相に直接電話をかけ、「インドは日本に対してあらゆる資源を充分に供給する」と申し出てくれています。



 日本はインドと直接戦争したことはなく、インドの世論調査で最も人気が高いのは日本です。また、中東原油が通過するマラッカ海峡を守ってくれているのもインドです。



 わたくしは、講演の途中で涙が出てきました。これほどの親日国に感謝もせずにいたことを恥ずかしく思いました。とかく中国や韓国、北朝鮮との摩擦に眼をとらわれがちですが、同じアジアにこんな国があるのです。依然としてカーストが存在し、陰の部分があるとしても、インドを大切に感謝を忘れないようにしたいものです。