広島市議会議員(安芸区)

とび職の経験

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。
 カープの優勝までのマジックが4となり、熱を帯びてきました。なんとか地元での緒方監督の胴上げを見たいものです。

 

 上の写真は、昭和46年春、大学1年生の時のものです。大阪の万国博覧会が閉幕した直後でした。中央の頬がこけた長髪がわたくしです。年初にタバコの火の不始末でアパートの部屋を燃やしてしまいました。親にも言えず、自分で弁償するために大阪府寝屋川市でとび職をしていた時のものです。当時としては他のアルバイトとは比較にならないほど高給であったことがとび職を選んだ理由の一つでした。たまたま親方を知っていた友人(写真の左側)が誘ってくれたこともあり、渡りに船でした。彼はわたくしより1歳年上でしたが、なぜか高校3年生でした。彼とは3年後偶然に名古屋駅前で再会しました。空手3段の腕前を生かしてキックボクサーになったと聞きました。それ以来会うことはありませんが、その後、風の便りにヤクザになったとのこと。わたくしは空手2段ですが、彼の空手の腕前は間違いなくわたくしより上でした。わたくしの最も強かったときよりも強かったでしょう。


 大阪駅から京阪電鉄に乗って寝屋川に行く途中、偶然に太陽の塔が見えました。その感動は言葉にならないほど大きなものでした。打ちひしげれて、とび職を目指したわたくしにとって、それは太陽の塔というより、希望の塔でした。先日、吹田市に建設されたガンバ大阪のサッカースタジアムを視察したとき、太陽の塔が見えました。45年前の感動が蘇ってきました。わたくしにとって太陽の塔は今でも希望の塔です。
 

 親方の家に住み込んで、とび職を始めましたが、その仕事のきつかったこと。2日を終えた夕方、親方にやめさせてもらうべく話をしました。そのとき親方は、「今ここで逃げたら、お前は一生後悔することになる。やり抜け。」と厳しく言われました。なんとかやり終えて弁償できるだけの金を得たときの満足感は言葉にできないほどのものでした。わたくしにとって、とび職をやり抜いたことと、空手道部を卒部したことは、その後の人生で大きな自信につながりました。
 上の写真はわたくしにとって最も大切な1枚です。いまでも苦しい時にはこの写真を見て奮起しています。


 当時の親方の会社は、○○組という名前でしたが、社員は現役の暴力団員あり、執行猶予中の者あり、背中に彫り物を入れている者ありで猛者だらけでした。その10年以上前の不景気な時代には、自ら手の指を落として労災保険で食いつないだと聞きました。一番保険料の高いのは親指です。何人かは親指だけでなく、その他の指も落としていました。また、現在のように安全ネットもないため、転落して重い後遺症を負った者もいました。わたくしもスレートの屋根を歩いていて踏み抜き、危うく転落しかけたこともありました。無事に終えることができたのは幸運でした。電気溶接の紫外線の怖さを知らずに眺めていて、一晩中目の痛みで寝られなかったこともありました。


 仕事を終えて、近所の一膳飯屋で食べる卵丼とかけそばが何よりのご馳走でした。夕食を終えると、近くの銭湯に行きます。金がなかったので、まず使い古しの石鹸を探します。リンスなど知る由もなく、石鹸で伸び放題の長い髪を洗いました。千里丘陵の空っ風で傷んだ髪には櫛がまったく通りませんでした。


 とび職を経験したからかどうかはわかりませんが、今でも高い場所は苦になりません。むしろ、高い場所を好んでいます。以前に上海の高層タワーの展望室へ行った時のこと。ガラス張りの床を観光客が恐る恐る歩いていました。イタズラ心が頭をもたげたわたくしは突然その場で何度か大きくジャンプしました。その時の周囲の観光客の驚いた様子は忘れられません。