広島市議会議員(安芸区)

同等性の原理=目には目を歯には歯を

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。
 冬季オリンピックが終わりました。熱気が急速に冷めるのでしょうか。


 2月10日に死刑について書きました。今日は関連して「目には目を、歯には歯を」について書きます。われわれの多くは、目を潰されたら仕返しとして相手の目を潰してもよい。歯を折られたら相手の歯を折ってもよいと考えているように思えます。わたくし自身もそうでした。ところが、作家の曽野綾子さんの言葉に目を覚まされました。彼女は敬虔なキリスト教徒です。彼女の考えは全く異なります。目には目をという意味は、目を潰された者が仕返しとしてできるのは目を潰すことまでだというのです。目を潰されたからといっても、目以上の報復、たとえば頭を潰すまではやってはならないというのです。古い時代には、泥棒の腕を切り落とすという重い刑罰がありましたが、それはやりすぎと考えるのです。われわれの理解は、ここまでならやってもよい、キリスト教的にはこれ以上やってはならない、という違いです。考えさせられる話です。


 ただし、同等性の原理という言葉があります。人の命を奪えば、同等性の原理によって自らの命をもって償うという考えです。カントの考えがこれです。とはいえ、一人殺しただけでは死刑にはなりません。家族を殺された遺族は一生苦しむのに対して、加害者は早ければ数年で出所します。日本の刑法はあまりにも加害者の人権に配慮しすぎていると思います。更生を期待するという理由であっても、加害者には被害者以上の人権を保障する必要はないでしょう。
 クリント・イーストウッドの映画、ダーティーハリーでは、凶悪犯を射殺したハリーに対してマスコミが追及する場面があります。それに対してハリーは、その言葉を殺された遺族に向かって言えと一蹴します。池田小学校での事件を起こして死刑になった宅間守の人生を学べば、彼はあの事件を起こすべくして起こしたと思わざるを得ません。そんな人間が一定の割合で存在しているのが現状です。