広島市議会議員(安芸区)

裁判員制度の問題点(8)

 いい顔、ふやそう。沖宗正明です。
 昨夜は少し肌寒さを感じました。いつの間にか蝉の鳴き声も聞こえなくなってしまいました。
 今日は裁判員制度の問題点として、司法の独立が侵される危険性を指摘します。
 現在、最高裁をはじめ下級裁判所までがこの裁判員制度の施行に向けて、なりふりかまわず広報活動をしています。公表されている平成18年度の裁判員制度に関する広報活動費は、日弁連が2400万円、法務省が3億円、そして最高裁がなんと13億円を使っています。本来は行政側である法務省が率先して行うべき広報活動を、なぜ司法側の裁判所が行う必要性があるのでしょうか。最高裁による裁判員制度のキャッチコピーは「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」というものです。イメージキャラクターには女優の仲間由紀恵さんが使われています。最高裁のホームページにも「国民の皆さんが裁判に参加することによって、法律の専門家ではない人たちの感覚が裁判のないように反映されることになります。その結果、国民の皆さんの司法に対する理解と信頼が深まることが期待されています。」と書かれています。いかにも誰にでも出来そうなイメージです。実際に福岡市での公聴会では「選挙権を使うように、六法全書の代わりに常識を使って裁判に参加したい。それが司法の民主化に繋がる。」との意見や「社会常識のある市民による裁判のほうが有罪に慣れた現在の裁判官による裁判より優れていると思う。」などあきれるような意見が出されました。
 裁判員には最低限の法律の素養が必要です。その上、被告人の一生を左右するという職務の重大性を理解し、それに応じた責任感を持たねばならなりません。さらに、人の話や書類を理解する能力、判断力、自分の意見を評議の場で発表し、討論する能力が一定水準に達していなければなりません。裁判員になるためには義務教育卒業程度でよいとされています。これではとても裁判官と対等な議論などできるはずもなく、模擬裁判で見られたように裁判官の思うところへリードされることになるでしょう。
 憲法第76条第3項には、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と謳われています。つまり、裁判官はどこからも、誰からも命令、圧力を受けることなく法律に従って裁判を行うのであって、裁判員のような素人の意見に拘束されないと解釈されます。裁判員によって裁判官の独立が侵される危険性が指摘されています。裁判官は法例の中で苦しみ、もがきながら判決を下しています。だからこそ国民にそんな苦しみを味あわせることのないように、税金で高い給与で優遇して裁判官に引き受けてもらっている側面があることを忘れてはなりません
 司法の役割の一つに国民の基本的人権を守ることがあります。薬害エイズ、薬害肝炎、原爆症認定などの住民訴訟では国が敗訴しました。いまはまだ何とか司法は行政からの独立を保っています。司法は政党が支配する国会や内閣という政治の世界とは一線を画し、独自の観点から国民の人権を守ることに存在意義があります。だからこそ、司法が民主化しすぎることの危険があるのです。今回のように、裁判所が行政の先棒を担いで制度推進の広報活動を行うことに、わたくしは司法の独立の危機を感じます。1891年滋賀県で起こった大津事件は、訪日中のロシア皇太子を警備の警官が切りつけた事件でした。このとき裁判長児島惟謙は政府からの死刑要求を敢然と拒否し、当時の刑法に従って無期懲役を言い渡しました。これがわが国の司法の独立に果たした役割の大きさは今に伝えられています。その司法の独立が裁判員法によって葬り去られようとしています。
 裁判員制度が導入されると、各地で裁判員法が憲法違反であるとの住民訴訟が起こるでしょう。そのとき、この制度を先頭に立って推進してきた最高裁に自らの行動を否定することになる違憲判決が出せるでしょうか。わたくしには、憲法の番人であるべき最高裁が自らその役割を放棄しようとしているとしか思えません。
 裁判員法の付則には施行後3年、つまり今から4年後に制度を見直すと書かれています。わたくしは、見直しを前にして国民の不満の声が爆発し、廃止を求める意見が続出すると予想しています。 

 以上何回かにわたって述べましたように、裁判員制度は日本国民そしてわが広島市民に多大な精神的、肉体的、経済的ダメージを与えます。わたくしは地方議員として、いまこの制度の不備を指摘し、唯々諾々としてこの制度を認めるのではないことを行動で示したいと考えています。9月議会で裁判員制度の廃止を含めて見直しを求める意見書を提出しようと思っています。
 ここまでお読みいただいた方には、長々としたわたくしの私見にお付き合いいただき、感謝申し上げます。