広島市議会議員(安芸区)

立川談志死去

 いい顔、ふやそう。沖宗 正明です。


 21日、落語立川流家元、立川談志が死去しました。享年75歳。1983年柳家小さん一門を飛び出して、立川流を創設し、多くの弟子を育てました。師匠の小さんは生前、談志のことを「了見が悪い」とけなしていました。談志の方も「小さんが死ぬ前に謝ってくれば許してやったのに・・・」と応酬していました。しかし、実際にはお互いに許しあっていたようです。


 橘家円蔵月の家円鏡です)は若いころ、古今亭志ん朝立川談志の芸に接して、絶対にかなわないと思ったそうです。それで、この二人とは違った滑稽噺の道を選んだと語っています。当時、若手四天王と呼ばれたのは、談志、志ん朝のほか、三遊亭円楽笑点の司会を務めました)と春風亭柳朝春風亭小朝の師匠です)でした。柳朝は江戸っ子の粋を体現した噺家でした。「粋」という言葉はこの人のためにあると思えるほどでした。若くして亡くなったのが惜しまれます。小朝を育てるときに、自分が稽古をつけるよりも外稽古ばかりさせたのは知られた話です。円楽は4人の中では最も劣っています。わたくしは、志ん朝に比べて談志は優れているとは思いませんが、現代落語論の中で「落語は人間の業である」と語っているように、人生に関しても正面から向き合っていました。人間の醜さを隠さずに演じていました。そこがすごいところでしょう。ただし、談志の声の悪さはどうしようもありませんでした。そのころから喉頭がんの前兆があったのでしょうか? また、談志のギャグは他の噺家が持っていないようなレベルのセンスでした。談志以外が語ると問題になるようなギャグでも平気で高座にかけていました。よく、「俺、恥を話すようだけど、以前に政治家をやってたことがあんのよ」と笑わせていました。二日酔いで記者会見し、沖縄開発庁政務次官の椅子を棒に振ったときも、「おれは真面目だから、二日酔いで会見した。並みの奴なら会見をすっぽかすよ」とも語っていました。さらに、談志の映画評論は並みの評論家では太刀打ちできないほどのレベルでした。桂枝雀古今亭志ん朝、そして立川談志、これから落語会を背負っていくであろう逸材が次々と亡くなりました。残念なことです。


1971年、参議院全国区で最下位当選を決めたとき、「真打は最後に登場するんだ」とうそぶきました。その直後のことを語っった逸話があります。当時の佐藤栄作総理と大平正芳自民党幹事長から師匠の小さん師匠ともども料亭に招かれたそうです。二人の超大物政治家が下座に座り、「松岡先生(談志の本名)、どうか自民党を支えてください」と頭を下げました。小さんは畏れ入ってしまい、「談志、お前、自民党に入れ」と即答したそうです。「あの小さんが平身低頭しているのを見て、俺はおかしくてたまらなかったねエ」とギャグにしていました。
 紀伊国屋の社長、田辺茂一を病床に見舞ったとき、紀伊國屋で買った本を持参したそうです。そのときの田辺社長のシャレ、「これがホントの男子の本懐(談志の本買い)だな」。センスのいいジョークでした。
 

 立川流から多くの弟子が育ちました。最も有名なのは「ためしてガッテン」の司会を務める立川志の輔でしょう。彼も師匠同様決定的に声が悪いのが惜しまれます。ほかの弟子は、例えば高田文夫は日大落語研究部の出身ですが、テクニックだけが先走っています。初めて聞くときは面白いのですが、2度目には全く笑えません。江戸っ子の粋を持ち合わせていません。はっきり言えば下品です。談志の弟子は総じて下品です。それは表面だけ師匠を見習ったからでしょう。談志としても、わかっていたのでしょうが・・・・。 
 

 昨日、改めて談志の落語を聞きました。彼の落語は誰も跡を継げないでしょう。一代の反逆児、立川談志師匠のご冥福をお祈りします。