広島市議会議員(安芸区)

田中真紀子2題

 いい顔、ふやそう。沖宗 正明です。


 前回のコメント欄で田中真紀子について書きました。昨日は偶然に彼女のことを見聞しましたので2つ紹介します。 
まず、昨日のBS放送番組、関口宏の「昭和青春グラフィティ」は昭和の東京6大学を懐かしむ内容でした。6大学出身の著名人がそれぞれの母校について語っていました。立教大は司会の関口宏(彼は親子3代立教OBです)、東京大は経済学者の森永卓郎、慶応は三波春夫の息子の三波豊和、早稲田は俳優の村野武範、明治は俳優の原田大二郎、法政は元サッカー選手の水沼貴史という顔ぶれです。
プロ野球より東京6大学野球の方が人気を博していたころ、早慶戦に勝てば慶応は銀座に、早稲田は新宿に繰り出し、夜を徹して騒いだそうです。まるでデモ行進のような録画が残っています。あのころは世間もそれを許していたのどかな時代でした。早慶戦では徹夜で入場券を求める列が並びました。
さて、田中真紀子です。村野武範が早稲田の商学部在学時には同じ学部に女子大生は数えるほどしかいませんでした。村野曰く、「同じ商学部に絶世の美女がいた。それが田中真紀子だった」。若いころは輝いていたのでしょうね。
確かに、角栄総理の外遊に同行する真紀子はチャーミングでした。



2つ目の話題は、昨日読み終えた鈴木宗男の「政治の修羅場」です。生々しい政治の裏面が描かれています。彼が2002年6月に「あっせん収賄罪」で逮捕された時、マスコミや外務省主導による報道で、悪徳政治家のイメージが定着しました。しかし、わたくしは彼の政治家としての生き様を高く評価しています。この本を読んでその感を強くしました。もちろん自分のことを悪く書くはずはありませんが、政治家としての能力は特筆すべきでしょう。
イルクーツクで森、プーチンの日露首脳会談があったとき、宗男も同行しました。元外務官僚の佐藤優も同行しました。会場で佐藤が小柄なロシア人を見つけて、「彼は将来伸びてゆく。せっかくだから、いま面通ししましょう」と言って、その男を別室に引っ張り込んで30分話しました。まだ30代なのに、大統領府の第一副長官でした。それが7年後に大統領になるドミトリー・メドベージェフでした。佐藤優の眼力の高さを示しています。
 余談ですが、わたくしも対ナチスドイツ戦勝65周年でボルゴグラードを議長代理で訪問した時、大統領就任直前のメドベージェフに会いました。小柄ですが、背筋が伸び、スーツの着こなしの良いエリートビジネスマンのような洗練された容姿でした。


北方領土については、エリツィンプーチンも歯舞・色の2島を先行して返還することに前向きでした。その後、ある程度の時期まで国後・択捉の2島は共同管理の選択肢もありました。沖縄方式です。つまり、トカラ列島を戦後7年、奄美群島を戦後8年で返還する。23年で小笠原、27年後に沖縄返還にこぎつけました。この沖縄方式を進めようとしていたときに、ときの外務大臣田中真紀子が突然に「即時4島一括返還」を蒸し返したために、ロシアの態度は一気に硬化しました。冷戦時代の「田中・ブレジネフ会談」に戻したのです。
宗男は、真紀子の勉強不足が原因と述べています。アーミテージ国務副長官との会談を直前にキャンセルしたり、個人感情で人事に介入するなどで、外務省からは、真紀子をクビにしてくださいとの要望が寄せられたようです。のちに宗男はその外務省に裏切られますが、自分が甘かったと反省しています。
当時、真紀子が何故あれほどまでに人気があったのは、歯切れのいいコメントによるところが大きかったのでしょうが、もはやメッキは剥げ落ちました。


 宗男が逮捕されて約2か月後に検察は「バッジを外せ」と手打ちのサインを送ってきました。本人も弱気になっており、早く保釈になって出て、政治家を辞めてもいいとまで思い詰めていました。その時、弁護士を通じて奥様が、「絶対に権力と妥協するな。アンタが2年や3年出てこなくたって、事務所も後援会も守る。家のことは絶対に心配いらない」とメッセージを送ってきたそうです。家族あっての政治家であることを改めて感じさせるエピソードです。
 自衛隊員を慰問するために、硫黄島横綱北海海を、沖縄に千代の富士を連れて言ったこともあります。
 宗男が収監されている時、本人がいないにも関わらず、「鈴木宗男を励ます会」が開かれています。また、彼が議員バッジを持っていないにも関わらず。年間約2億円の政治献金が寄せられています。こんなことも宗男の政治家としての評価ではないでしょうか?